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占い師を”技術者„と呼べば、反感を買うだろうけれど

用心深そうな声で、電話がかかってきた。
「浮気されてると思います。話もしてくれなくなって」
20代後半の女性からだだった。浮気をしているのは彼女の夫だ。彼女の名前を仮に麻友さんとしておこう。出産のあと、麻友さん実家に帰っているあいだに、どうやら夫の浮気がはじまったらしい。
電話のむこうの麻友さんは、あまり言葉数が多くなかったけれど、かなり神経が痛んでいるのはわかる。

鑑定してみれば、たしかに浮気のリスクが高いときだ。彼女の運気も悪い時期に突入している。しかし、夫の浮気はやがて終わりを告げ、家庭にもどってくるという暗示があるのもたしかだ。ただし時間はかかる。もちろんそれは彼女に伝えた。
しかし、そのときはなぜか確証がもちにくかった。彼女の夫の、脆さが気になった。表向きはおそらく勢いがあって、人あたりも悪くないだろう。しかし、芯が弱い。そう見えてしまう。
赤ちゃんをつれて麻友さんが実家からもどってきた当初は、夫もふつうの様子だった。ところが、しだいに帰りが遅くなり、出張で家をあけることがふえてきた。なんだか嫌な予感がして、とうとう彼女は夫のケータイを盗み見てしまった。愕然とした。

麻友さんは問いつめた。すると、すんなり夫は浮気を認めたのである。
「そういうのは、やめてほしい」
それで治まると彼女は思っていた。
ところが逆に、夫は開き直ってしまった。それどころか、口もきかなくなってしまったのである。まったく目論見は外れてしまった。職場で知りあって結婚、専業主婦になって4年がすぎた。夫は温和なほうで、麻友さんは彼をコントロールできると思っていた。これは夫婦にとってかなり危険な考えではある。それが現実となった。
夫はほぼ無言になってしまい、家ではスマホをさわっているだけ。麻友さんはいたたまれなくなって、私に悪いところがあったら一生懸命直すから、と手紙を書いて夫にわたした。しかし、それにさえなんの返事もなかった。これでは彼女の神経がまいってしまう。

麻友さんは母親に相談し、夫の母親も状況をわかっているという。しかし、なにも有効な手は打てない。思いあまって、彼女は占い師に頼った。

占い師に必要なものとは…

ある種の直感も含めて、占いはひとつの技術であると僕は考えている。これが占い師という仕事になると、サービスあるいは接客的な要素がかなり侵入してくる。占いと占い師のあいだには、深くて暗い川があるわけだ。

占いサイトの運営側と話をしていると、「営業職や水商売からの転職者が多く、じっさいに結果をだしている方も多い」という。僕はどちらの経験もないが、この話を聞いて、なるほどと思う。なるほどと思うが、営業職や水商売の経験が必要条件ではない。十分条件でもないだろう。それが証拠に、僕はなんとかやっている。

しかもいまは占い師が急増していて、元公務員や元銀行員という人もいる。もとから興味があったのか、自由気ままな商売に見えたのか、それとも技術的な部分にひかれたのか。理由や動機は人それぞれだろう。自分なりの方法論を見つけだせれば、問題はない。
ただし、職業として占い師をするのであれば、まずは占いに関わる2つの要素を自分なりに意識し、解決をつけておくのがいいだろう。

1つは相談にやってくるクライアントとのコミュニケーションである。それは相手にお愛想をいうということではなく、会話をとおして相手の本心を探る能力だ。商品は占いという技術のサービスだが、これが教育や美容や法律相談など別のサービスであっても、コミュニケーションという点では変わらない。そのコミュニケーションの手法は違っていても、相手は人だ。

もう1つの要素は、占いという特異な技術をどう共有するかという問題である。これはなかなか難しい。
占いというのは「本来は目に見えないものを見える」といってクライアントと話をする。その特異な関係性のなかに成り立っている。話をしている時点で、クライアント側が占い師の話す内容について、その真偽を判断するのは難しい。

この関係は、経済問題でしばしば登場するレモン市場そのものだ。レモンの皮は厚いので、外から見ただけでは中身の状態がわからない。購入して食べてから、はじめて品質がわかる。つまり、売り手と買い手のあいだに情報格差があって、粗悪品や不良品が流通する市場をさしている。中古車市場がよく例にあげられるが、占いの現場もそういう面がある。

粗悪品を売っても長続きはしないが、問題はなにをさして粗悪品というかだ。
トラクターがほしい人にポルシェは不要である。なにがいいたいかというと、性能だけでは商品は売れないということ。占いの性能は、占い結果の精度に集約される。ところが仮に占いの結果が事実をいいあてていても、クライアントの希望にそぐわない鑑定結果を突きつけられて喜ぶ人はまずいない。これでは占いは成立しても、占い師と気宇ビジネスは成り立たない。

“アタる”
これが、占いにとっての、醍醐味であるのはたしかだ。ところが、それが盲点にもなる。
“アタる”ということの先には、占いというものがもつ、もっとも興味深い秘められた快楽がある。それは占い師にとっても、クライアントにとっても同じだろう。だからこそ代金を払って鑑定をしてもらう。
ある意味で、競馬の予想屋に似ているところがあるのだ。ハズれれば予想屋の評判はさがる。とはいえ、意外と文句をいってくる人は少ない。そこも似ている。逆にアタれば評価があがって、客も増えてくるだろう。そこには商売を度外視しても、みずからの専門性が磨かれていく快感がある。

ところが、これが盲点にもなる。
アタるかどうかより、もっと大切なことがあるのじゃないか、ということだ。その大事なことのためにも、占い師は存在している。ただ占うだけならば、本やネットを見ながら自分でも占うことはできる。最近はAIだって占ってくれる。統計値や広範な知識という点では、ヘタな占い師よりよほど高機能だ。しかし、それでは現段階ではクライアントは満足できない。
クライアントの心理を探れば、高い精度の占いによって見えないものを見てほしいのはたしかだ。同時に、自分自身の不安を話したい、聞いてもらいたい、同調してほしい、悩みを和らげてほしいという欲求がある。そうなると、アタるアタらないにこだわり過ぎるのは、占い師側の自己満足になりかねない。技術や性能に酔ってはならないのだ。

悩みには人格がある

電話占いやチャト占いなどの非対面占いの急拡大が、ひとつのヒントになるだろう。
非対面の場合、占い師と顔をあわせなくていいのはもちろん、クライアントがわざわざ占いの館などに出向かなくていい。手軽になったということでもあるが、それ以上に、秘密の保持という点できわめて有効だった。人に話しにくいい悩みを、時間と場所を選ばず、顔も名前を知られずに相談できるわけである。
じっさい、こんな声があった。

「占い師から自分の顔が見えないこと、それからスマホをつかって自宅からら相談できること。これが大きかった。対面占いのように占い師の先生を目の前にして鑑定をしてもらうと、いいたいことがいいにくい。なんだか圧倒されてしまって・・・。だから電話占いだと、リラックスして相談できた気がします」

悩みは、だれにでも訪れる。苦しかったり、憂鬱だったりするため、排除しようとする。この点は、からだの痛みと同じだ。
しかし、悩みの「解決」という言い方をすると、ちょっと違和感がある。解決にこだわってしまうと、かえってまやかしが生まれるからだ。
悩みそのものは、きわめて人間的なもので、占い師ごときが容易に解決できるものではない。じゃあ、どうするのか。

すこしばかりの現場経験を踏まえていうならば、悩みにはその人なりの人間性がそなわっている。「悩みの人格」といってもいい。尊厳もあれば弱さもそこに巣くっているので、それを探りながら、ときにはユーモアさえまじえて、うまいつきあい方をしていくのがいい。そんなふうにも思っている。
そういう意味では、占いはキュア(cure)を追い求めてながら、占い師はケア(care)に心を砕く必要がある。このケアにはたんい癒したり励ましたりといだけではなく、未来性を提供するということだ。
つまり、2つめの要素はある種の推進力というものだ。

悩みは敵じゃない。むしろ、顔見知りの隣人である。

こういうと、なんだか人生相談みたいだが、たしかにその一面もある。大切なのは、相談にくる人の姿を、そのまま映しだすことだろう。それは心理カウンセラーにも似ている。しかし決定的に異なるのは、占いにくる人たちは、やっぱり「こたえ」を求めている。神様ではないにもかかわらず、占い師はそれらに応じていかなければならない。そこが盲点になる。ときにはいかがわしさにつながる。
もちろん、さまざまな占術があって、こたえをだすことはできる。かといって、そのこたえに頼るだけでは、占いは成立しないという気がしている。というのも、安易なこたえは「隣人」を遠ざけてしまうことになるからだ。

占いに求める正確性+指向性+再現性

占いをしたあと数週間か数カ月がすぎて、結果報告にきてくれる人もいる。きてくれるといっても、電話かあるいはサイトへのテキストメッセージだ。先日もそういう連絡があった。相談内容は、交際中の彼との関係がぎくしゃくしてきた、連絡もあまりしなくなってきて……というものだった。僕の占いの鑑定は、つきのようなものだった。

「彼もそのことに気づいて、悩んでいますよ。意外と気に病むタイプですからね。でも、プライドが高いので自分からは折れてこないでしょう。意地をとおせば窮屈になるばかり(夏目漱石の『草枕』の冒頭にあるように、とはいわなかったけれど)。できれば、私のほうが人間ができているから折れてあげよう、という気持ちで、すこし態度を柔らかすると、うまくいく可能性がありますよ」

きちんと占ったうえでの返答だが、占いとしては新味のない、ごく平凡な回答だ。占いでなくても、これくらいはこたえられる。けれども、このクライアントからは後日、感謝のメッセージが届いた。

占い鑑定の言葉を聞いて、「彼が私を嫌いになったわけじゃない」「焦らなくても大丈夫」と信じることができました。だから、すこしずつ私のほうから彼に歩み寄る努力をはじめると、復縁できました!」
おおむねこんな内容だった。
しかし、現実はいいほうにばかり展開するものではない。僕のところにくる相談は、というより電話やチャットの占いでは、ほとんどが恋愛に関するもので、とりわけ復縁や不倫などの複雑な恋愛が多い。鑑定も困難ではあるし、それ以上にこたえ方には細心の注意が必要だ。

プロとして占い師に求められるもの。
1つが、ある程度という断わりをつけたうえでの、鑑定結果の「正確性」。完全はむりだが、すくなくとも技術的背景をしっかりもつ必要はある。クライアントに鑑定の解説はしないまでも、すくなくとも説明責任はある。
2つめは「指向性」。クライアントの望むかたちを察知しつつ、同情ではなく共感性をもちながら、一定の方向を示していくために適切と思われる言葉を提供していく力である。これはいま、長々と語ってきたことだ。
これらにもう1つつけ加えるとすれば、「再現性」である。ときにはうまくいく、というのではプロとして成立しない。ある程度の正確性と共感性を繰り返し発揮できる必要がある。それには、修正能力が欠かせない。なにも占いにかぎったことではない。多くの仕事にいえることだと思う。

冒頭に紹介した麻友さんは、いまなお夫の浮気に苦しんでいる。僕には浮気をやめさせることはできない。しかし、彼女からはときどき電話がかかってくる。占いに求めるものがあるのだろう。

合理性や科学的立証性のなかで僕たちは生きている。そこには大多数の人が共有できる認識がある。迷信を生きているわけではないのだか。しかし、神秘性や地域性、感受性、政治的信条などなど、個々で異なる認識もある。認識が異なるといって非難しあうのではなく、できれば認めあいたい。それに、科学が解き明かした世界の秘密は、想像以上に少ないという思いもある。世界の半分どころか、ゼロコンマというくらいかもしれない。これも感覚の話なので怪しいが。
僕はすべての占いが正しいとは思わない。しかし、ときには耳を傾けてみることで、人生のヒントや楽しみをもらえる場合もあるのではないだろうか。必要なければ、近づかなければいいだけの話だ。


※ 文中で登場した人や言葉の登場する本です

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