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交響曲 第3番「シンフォニア・エスパンシヴァ」【C. Nielsen】《私的北欧音楽館》

 11/20、Eテレの「クラシック音楽館」で放送される、ニールセンの交響曲第3番「シンフォニア・エスパンシヴァ」について。予習に役立ちそうなことをつらつらと書いていきます。
 書くことのアイデアが頭のなかでまとまるまで待っていたら、放送日を過ぎてしまいそうなので、いきあたりばったりになりますが、思いついたことからどんどん書いていこうと思います。なので、とりとめのない文章になってしまいますが、ご容赦くださいm(_ _)m


・◇・◇・◇・

 

① オンラインでスコアをチェックしよう

 ニールセンの交響曲のスコアをみてみたい、というひとは、とにかくまずは、このリンク↓へ GO!

 ・værker = 英語の works
    → Nielsenværker で、ニールセン作品集

 ここ、Nielsenværker にいけば、ニールセンの楽曲について基本的なことを調べることができます。ジャンルごと、作曲年代順にリストアップされています。英語版とデンマーク語版があります。
 曲名をポチると、簡単な解説と、スコアが出てきます。

 もうすこしいろいろ知りたいひとは、ここからさらに、王立図書館(Det kgl. bibliotek)のリンク↓へとんでください。

 ここには、ニールセンの全作品についてのカタログがあります(Catalogue of Carl Nielsen's Works)。
 さきほどの Nielsenværker の記載は、このサイトの内容の転載になります。
 ここではさらに、ニールセン存命中の演奏会のデータや、ニールセンの手記のデータ(しかし、デンマーク語がわからないので、宝の持ち腐れにしかならない( ;∀;))、文献等々の資料を調べることができます。
 そして、Carl Nielsen Edition という文字列の部分をポチると……スコアが掲載されている本がまるごとダウンロードされます!

 ところで、ニールセンって、作品番号(いわゆる op ってヤツ)があまりあてにならなくて、FS番号が用いられることがおおいです。だけど、FS番号でも網羅されてない楽曲とかもあったりします。
 だから私はなるだけ、このカタログの通し番号である CNW を用いるようにしています。CNW は、個々のちょっとした歌にも、ちゃんと固有の番号がふられていて、ニールセンの歌重視の私には、とても便利でありがたいのです。


 さてさて。
 いささかはなしがスコアからはそれますが。

 これらのページをグーグル翻訳をかけたときにでてくる、

 7月、ニールセンは交響曲の制作を続けたが、うつ病のために中止を余儀なくされた。
(In July, Nielsen continued working on the symphony, but was forced to stop because of a depression.)

 っていう一文は、めちゃくちゃ気になりませんか?
 この場合の depression を、うつ病と訳して妥当なのかどうか、というのは英語の苦手な私にはよくわかりませんが、それはさておき。すくなく見積もっても、一時的にかなり深い、気分の落ち込みの沼にはまっていた、ということなのでしょうね。
 ニールセンの音楽は、聴けばすぐにわかるとおり、こころを病む、という対極にある、非常に健やかな音楽です。仮にていどの軽いものであったとしても、ニールセンがうつ的なものを経験していた、というのは、かれの音楽をよく知っている私としては、かなり衝撃的な事実です。

 私が音楽から「病んでるなぁ……」と感じる作曲家は、たとえば、チャイコフスキー。なにか大きなものや美に耽溺でもせぬことには消せないようなやるせなさが聴こえるときがしばしばあります。ショパンからは、薄暗い部屋の片隅で体育座りしているようなさびしさがうかびあがってくるし、マーラーにいたっては、人びとのにぎわいにに背を向けて、アイロニカルに口の片端を捻じ曲げがら、人差し指を指揮棒に見立てて虚空に咄咄怪事とでも描いているような人物の姿が見えてくる。

 だけどニールセンの性質はちがいます。地に足のついた健やかさ、というのがその本質だとおもいます。そのことがもっともよくあらわれているのがこの歌です。

 この再生リスト↑は編集が終わってないので、限定公開でリンクをはっていることをご了承くださいm(_ _)m
 おおよそおすすめ順にならんでいますが、やはり、理解の手引きとして最良なのは、ここに動画をはった Aksel Schiøtz の歌唱だと思います。

 私がもし、「ニールセンをひとことで紹介するとしたら?」と問われたら、真っ先に、この歌、Jeg bærer med smil min byrde (私は微笑みながら私の荷物を運ぶ)を聴くようおすすめします。

jeg = 私は   ・bærer = 運ぶ
med smil = with smile  ・min byrde = 私の(min)荷物

 そして、こんど放送される交響曲第3番「エスパンシヴァ」は、ニールセンの6つの交響曲のなかではもっとも、この歌に代表されるニールセンの健やかさを体現している楽曲です。だから、「エスパンシヴァ」の予習のためにも、ぜひいちどは耳にしておくことをおすすめします。
 じつは、この記事のヘッダーのイラストも、ニールセンらしい健全な精神を如実にあらわすものとして選んでいます。つまり、健全ってなんだ?、それは、自然のかたわらで、心身の能力を全開にして働くこと、その結果として、ビールが今日も美味い!、ってこと、です。額の汗とやりきった微笑みとのドハマり具合が、もう、サイコーです ( ´∀`)b!!

 ところで、健康や強さに恵まれたひとは、ときとして、弱ったひとや立ち上がれなくなってしまったひとに対して無理解であったり、残酷であったりします。しかし、ニールセンの音楽のたたえる健やかさは、そのようなマッチョな健康さとは無縁です。つねにだれかに対して手をさしのべている。ともに歌い、ともに歩もうとさそいかけてくる。そう、あえていうなら、音楽を介してニールセンがあなたの友となり、生きる勇気と幸せ、をくれるのです。
 芸術というのは孤独な作業と考えられがちで、その結果生まれたものも孤高の存在であるとみなされるし、事実、そうであると感じさせられることが多いです。ニールセンのような共感性に満ちた芸術というのは、なかなか無いのではないでしょうか。ニールセンの稀有な特性は、ニールセン自身の個性であるとともに、おそらくはデンマークの国民性にも影響されているのでしょうね。だけど、それだけでなく、ニールセン自身が味わった、人生がどん底に沈み、二度と浮かび上がれないような経験もそのみなもとになっているかもしれない、と理解すると、よりすっと腑に落ちるような気もします。この note でもそうなのですが、人生のなかで大きなつまずきを体験したひとの文章からは、たいがい、共生を目指すやさしさや、他者への慈しみの眼差しがにじみ出ています。そのことと同じなのではないかと推測しています。
 また、お年を召してからのヘルベルト・ブロムシュテットさんの演奏会からも、ニールセンの音楽のもつ共感性と同じ性質のものを感じます。ブロムシュテットさんが指揮台に立つだけで、彼を真ん中にして、オーケストラと聴衆から、非常に温かく親密な空気があふれてくるのが感じられます。先日、11月14日のEテレ「クラシック音楽館」で放送されたシューベルトの交響曲(第1番、第6番)の演奏会もそうでした。NHK交響楽団の団員はブロムシュテットさんの指揮に従うことに合意している。だけど彼らの音楽に対する自発性や自主性は保持されている。ともに歌い、それを喜び分かち合う民主的な関係性が成立しているであろうことが、会場の雰囲気から伝わってきます。指揮台に立つブロムシュテットさんを見るたびに、ニールセンが音楽を中心にした人間関係に求めていたのはこういう関係性だったのではないか、という気持ちがいつもします。

 余談ながら、この日のコンサートマスターは、配慮がさえていたと思います。
 全ての演奏が終わって、ブロムシュテットさんが団員に対して、立って聴衆からの拍手を受け取ってくれるよう、ジェスチャーで示したとき、団員はすぐには動きませんでした。だけど、そのときコンマスが率先して立って起立を促したあたりに、常と異なり椅子に座って指揮をした超高齢の指揮者への気づかいが感じられました。テレビの前の私ですら、「名残惜しいからもっとここにいてほしい」と「でも、身体にはこたえているだろうからはやく休憩させたあげたい」のはざまで悶々としてたくらいです。その場にいたひとたちには、なおさらだったことでしょう。コンマスの振る舞いは見事でした。
 とにかく、演奏会場のひとびととの関係性をテレビから見ているだけでこちらも幸せになれるので、ブロムシュテットさんの出る日は、自発的にスマホはオフ。ながら見なんて、絶対しません。


② YouTube でスコアをチェックしよう

 では。はなしをスコアのことにもどします。
 以上に書いたように、ニールセンについては、楽譜はことごとくオンラインで調べることができます
 日本なんて、デンマークからみたら地球の裏側。そこに住むただのおばちゃんである私が、こうやってニールセンのスコアにアクセスできるなんて、ほんまにいまだに信じられないおもいです。暮らしのさまざまな面でオンライン化の進展が著しいとされるデンマークならでは、ということなのでしょうけれども、一方で、デンマークのニールセン顕彰にかける熱い魂の存在を感じます。
 これからの時代、非英語で発表されるコンテンツはどんどん不利になっていくでしょうから(ニールセンの歌劇「仮面舞踏会」も、デンマーク語のテキストであるのが普及の壁になっているし)、日本の作曲家についても、この例のように英語と日本語両方でスコア等の基本的な資料にアクセスできるサイトがあれば、と思います(もしかしたら、私が知らないだけかも……)。ていうか、肝心の日本人からして、日本のクラシック界の積み上げた文化遺産についてはよく知らないですよね……(-_-;)

 だけど、このせっかくのオンライン上のスコアも、Nielsenværker のものは、掲載の仕方にちょっとクセがあるせいで少々スコアのページがめくりにくいし、Catalogue of Carl Nielsen's Works からダウンロードできるものは、縦スクロールなので、音楽の進行に合わせてページをめくっていこうとしたら、微妙にタイミングがとりにくい。スコアはやはり、五線譜の流れのとおりに、左右に2ページずつ並んでいてほしいし、横にめくりたい。
 それにそもそも、素人にとっては、やはり、スコアって、曲を聴きながらページをめくってついていくだけで、いっぱいいっぱいです。私も、聴き慣れた曲であるからなんとかなっているものの、それでもなお、いまどこよ〜、おいてかないで〜( ;∀;)、と楽譜上でよく迷子になります。で、そーゆーときは、楽譜を先に進めて、なんとなく知ってるフレーズっぽい音符の並びを見つけて、先回りしてドキドキしながら待機したりしてます(^_^;)。

 私みたいにオタマジャクシに慣れてないひとは素直に、YouTube にあるスコア付きの動画にたよっちゃいましょう。

 曲の進行にあわせてページを自動でめくってくれるで、段違いに楽です。おかげで、ページ全体を俯瞰したり、個々の音符を読むことに集中しやすくなります。
 この動画に用いられている音源でしかスコアを確認できないのが残念ではありますが、素人がスコアに慣れるための練習、とかんがえたら十分に価値があります。


 しかし、こんな親切な動画があっても、やっぱり読譜がついていけないのが素人の悲しいところです。
 そんなひとにはコレ。聴くスコア、とでもいってよい、4手のためのピアノ編曲版!

 ※ サムネ画像では「NO 4」となっているのでアセりますが、中味はちゃんと、第3番です ε-(´∀`*)

 このピアノ編曲版については、さきほどの Catalogue of Carl Nielsen's Works にも記載があります(ページの下の方にあります)。
 Sources の項目をひらいて、Facsimile をポチると、手書きの楽譜がダウンロードされます
 せっかくの楽譜なのですが、鉛筆で走り書きなので、薄いし乱れてるしで、まさしく「好きな人にはたまりませんなぁ……」の世界。キチンと印刷されてるスコアでもいっぱいいっぱいなのに、手書きの楽譜を見ながらピアノ編曲版を聴くのは、さすがにお手上げでした。
 この楽譜は、残念ながら、当時は出版にはいたらなかったようです。


 さて。このピアノ編曲版の動画は、観賞用、というよりは、研究用の資料、だとおもっています。正直いうと、フォルテシモの音量とかちょっとものたりない……。
 だけど、これのおかげでよく見えるようになったことがいくつかあります。

 まず、びっくりするのが、楽曲のいたるところがユニゾンである、ということです。いやいや、交響曲って、もっとこう……和音とかなんか重厚なものが詰め合わせになってるんとちゃうの(@_@;)、とこちらがとまどうほどシンプルで、ユニゾン推しです。
 では、和音はなにをしているか。スコアも参照しながら聴いていると、どうも、打撃的に参入してくるか、連打して打楽器のように刻んでいるか、が主な仕事のようです。ピアノは「鍵盤で操作する、弦を打つ打楽器」なので、余計に打楽器的に聴こえてしまうのかもしれません。あとは、第1楽章に出てくるホルン五度が印象的ですよね。それ以上のことは、耳と読譜力の限界をこえているのでわかりません。
 また、第1楽章では、装飾音がこれでもかというくらい用いられているのですが、装飾音を伴った音もまた、打撃もしくは刻む、のが主な仕事のようです。ショパンのピアノ曲の装飾音は、音に優美さや細やかな陰影を与えてくれますが、「エスパンシヴァ」の装飾音は、「踏切の警報」のような音を出すのが目的ではないか、と面食らうほど強烈です。

 さらに驚くのが、めっちゃバッハっぽい、ということです。ピアノで聴くからよけいに、バッハのフーガやインヴェンションなんかを想起しやすいのかもしれません。
 で、どこからどこまでがバッハ的か意識して聴いてみたら、なんと、意識すればするほど、いたるところがバッハ的でした。つまり、徹底的に対位法で作曲されている(たぶん)。そういう目でスコアを見てみると、たしかに、スコアの絵面も対位法です……いや、対位法かどうかってのは絵面で把握するものじゃないだろ?、って自分でもおもうけど、例えば音楽の教科書にのってた「大地讃頌」なんかの楽譜を思い出してみてください。それととは異質な雰囲気がしているのです。
 それはともかく、ピアノが2台であるおかげで、いま、どのメロディとどのメロディが対話をしていて、ソプラノがメインで歌っているときは、アルトやテナー等は何を歌っているか、という関係性がめっちゃ耳で把握しやすかったです。

 「エスパンシヴァ」は、6つの交響曲のなかで、ニールセンらしい明るく朗らかに澄んだサウンドが初めて登場した交響曲になります。そのサウンドは、音楽の進行のなかに和音を詰め込むのでなく、ユニゾンで、かつ、バッハの時代の作曲技法にならっていることによってもたらされているようです。
 私は、和声法は面で塗っていく感じで、対位法は複数の直線が交差しながら進行していくイメージでとらえています。それゆえか、対位法を意識しだしてからは、「エスパンシヴァ」がルーブル美術館にあるガラスのピラミッドのように感じられるようになりました。互いに交差する直線だけで構成されたシンプルな構造の内部に、明るく太陽の光が透き通っている、内部は空でありながら充実している、そんなイメージです。
 なるほど。交差し合う複数の旋律が音楽の骨組みとなり、かつ、重ねて鳴らす音が打楽器のように短く区切られ刻まれているから、あるいは、装飾音として分散させられているから、光が通り抜けことができるのか、という感覚です。時折あらわれる、2つの音を重ねて進行するメロディは、直線の桟とそれに絡みつく薔薇の蔓のようなもの、と理解すればよさそうです。


 このピアノ編曲版から学んだことを踏まえて、スコアを参照しながらオーケストラの演奏を聴いてみたら、各楽器の対話のようすがよくわかるようになりました。きっと、対話に注目して音を拾いあげるよう、意識が切り替わったのでしょうね。
 それどころか、「オレ、ココにちょっとこんな音を添えてみたいんだが、いいかな!?」みたいなイタズラっぽい気配が各所に散りばめられていることにも気がつきました。こーゆーところ、ニールセンが少年時代に、父親とその仲間たちの楽団に参加して演奏していた経験の反映かな、なんて想像が膨らみます。

 以下は、ニールセンの自伝「フューン島の少年時代」から、対位法と楽団時代についてのエピソードを(以下の引用文中の注と太字は、五百蔵がつけたものです)。

 そのような宴会(注: 地元での結婚式等、お祝いのパーティー)で、四、五人以上で演奏する時には父がコルネットを吹きました。コルネットは父がいちばん得意な楽器で、唇の使い方が巧みで、息もものすごく長いのでした。後になって私が仲間に入ったときに気がついたことですが、伴奏していた音楽師たちは、メロディにいろいろと自由に低音部を付けて楽しんでいました。やがて、そうして低音部を入れたりいろいろな形でリズムを変えたりすることが、私のいちばんの楽しみになっていました。これはもう確信をもって言えることですが、私の対位法の才能はそうやって発達していったのです。 (p. 93)

 彼(注: 盲目のアナース)は議論が大好きで、私はこのめずらしい人物にすっかり魅力されていました。いつぞや私も一緒に演奏していたある宴会で、彼が音楽を止めて、「ニールス - メーラー(注: ニールセンの父のあだ名)、この小僧は才能があるぞ」と父に言ったときは、もう最高の幸せでした。ちょうど私が第二ヴァイオリンを弾いていたときでしたが、メロディに逆らって流れる旋律をどうしても加えてみたくてやってみていたのでした。 (p. 96)

 最初に引用したエピソード、対位法についてのニールセンのドヤ顔っぷりが想像されて、めっちゃ印象深かった部分です。盲目のアナースとのエピソードのなかにも、自由な付け加えについての言及があったのは、今回読み直してはじめて気がつきました。
 この記述を読んで以来、ニールセンを聴きながら対位法の勉強をするようになりました。バッハのピアノ曲の解説書を読んでも生硬い理解しかできなかった対位法が、ニールセンのおかげでいきいきとした対話として把握できるようになったのは、ほんとうに素晴らしい体験でした。

 せっかくなので、バッハとの出会いについて書かれている部分も引用しておきます。ちょっと長いですが、ここにも対位法への感動的な理解について述べられています。

 私が『平均律クラヴィーア曲集』の古い楽譜を見せると、彼(注: オウツェン)は、バッハは深遠で妙だから私がもっと年をとるまで脇においておいた方がいい、と言いました。そう言われるとかえって弾きたくなって私は次の日にバッハの勉強を始めました。きわめて熱心にです。オウツェンの声の響きに、バッハの音楽に対して極めて高い尊敬を払っているのを聞き留めたからでした。私はテンポの遅いプレリュードから始めました。ゆっくりゆっくり音をひとつずつ弾いていきました。
 初めのうちは、それがほんとうの音楽だとは思えませんでした。メロディはどこにあるんでしょうか。同じ音形が何度も出てくるというのは、何を意味しているんでしょうか。右手の部分に歌がありません。対位法というのがあるのを私はまったく知りませんでしたから、その点に関しては私の理解の範囲から外れていました。まるで、小さな折りたたみ式のナイフで巨大な樫の木の幹を切り刻みながら、まだ樹皮さえ切れていない、という感じでした。けれども私は続けました。時折ふと、いくつかの音がぶつかりあって小さな輝きを発し、それが私の知っていたどんな音楽ともまったくちがった仕方で心を打ってきました。インディアンの話で読んだことですが、野生人は木の枝二本を長い間こすりあわせ、最後には熱くなって火がつきます。私も同じことをしていたのでした。変ホ短調の短い第八番のプレリュードを五十回以上も弾いたあとで、私の中で火がついたのです。ドアが開けられました。私はようやくまったく新しい妙な世界を探検することができるようになったのです。けれども私は、オウツェンがピアノの手ほどきをしてくれていたので、バッハから遠ざかりました。そして二十代の半ばになってから、ふたたび『平均律クラヴィーア曲集』に取り組んだのです。  (p. 148〜9)

 これが、ニールセンが練習していた「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の第8番。前半がプレリュードで、後半(3:17)はフーガです。左右の手がよく見える動画を選んでみました。

 かなり長い引用になってスミマセンでした。だけど、本の中ではかけ離れた場所に存在しているエピソードを並置して読むようにできるのって、こういう場ならではですね。並べてみることによって、ひとりの少年が自由にのびのびと楽しんでいたメロディの付け加えが、バッハと出会うことで対位法という音楽の技法の大河と接点を持ち、理解し、その結実のひとつとして「エスパンシヴァ」という交響曲がある、というストーリーが、まるでひとつの音楽であるかのように立ち上がってきます。

 ついでながら、ニールセンがふたたび「平均律クラヴィーア曲集」に取り組んだ20代半ばを、単純に25歳とみなすと、1890年のこと、となります(ニールセンは1865年生まれ)。そこから、研究を深め、自家薬籠中のものとし、作曲の方面に活かせるようになるには、まださらに時間が必要だったはずです。
 ニールセンの音楽を作曲年代を使って区分するとしたら、1900年より前か後かがおおまかな目安になります。「エスパンシヴァ」(作曲は、1910〜11年)にもあらわれているニールセン特有の、高く晴れた日の青空のような澄明さが出現するのは、だいたいは1900年代の曲です。それ以前、1800年代の曲の音色は、重く鈍重で、まるで曇った日の灰色の空のようです。この変化に影響を与えたもののひとつがバッハの研究だったのだろうな、というのは私の想像ですが、当たらずともいえども遠からずなんじゃないかな、なんて思いました。


③ テレビで見るスコア、について

 ここまで、① 紙のスコアをオンライ化したもの、②-1 YouTube で動画化したもの、②-2 耳で聴くスコアとしてピアノ編曲版、について取り上げながら、いろいろと雑談してきました。
 そして、スコアといったらあとひとつはずせない、③ テレビで見るスコア……それは、NHK の編集した演奏会の映像です。

 YouTube のおかげで、海外の様々なオーケストラの動画を視聴することができるようになりました。だけど、ときどきですが、映像を見ていて、「ん?……いま映すのそこでいいんか」と違和感を感じるときがあります。そーゆーとき、やっぱり NHK は上手いなぁ、と感心します。
 上手いというのは、「ここではこの楽器に耳をそばだてて聴いてほしい」「目立たないけど、いまこの楽器が縁の下の力持ちで演奏しています」というのがちゃんと画面に映っている、ということです。
 NHK びいきなのは、単に10代の頃から見慣れているから、というせいもあるかもしれませんが、ぼーっと聴いていただけでは気がつかないことを、「N響アワー」の時代からずいぶんと勉強させてもらいました。それゆえに、「クラシック音楽館」等の NHK が編集した演奏会の映像を「テレビで見るスコア」と勝手に呼ばさせてもらっています


 ニールセンの演奏会がテレビに映るのも、毎回楽しみにしています。カメラマンやディレクターの目を通して着目点を教えてもらえるからです。

 交響曲 第2番「四つの気質」のときは、一般的なクラシックの曲の放送時に比べて、ビオラとチューバの露出がダントツで高かったです。つまり、それだけよく活躍していたし、重要な部分を担っていた、ということですよね。
 以降、ニールセンのスコアを見るときはビオラの動きに自然にチェックの目がいくようになりました。ですが、チューバのチェックは……まだそこまで見る余裕がないのでありますm(_ _;)m

 フルート協奏曲のときは、ティンパニとトロンボーンの配置に度肝をぬかされました。だって、独奏フルートの対角線上の反対側、つまり、ふだんはチューバが配置されているような位置いたのですから。
 このとき指揮したパーヴォ・ヤルヴィさんの創意なのだと思いますが、「この協奏曲は事実上、フルートとティンパニ、トロンボーンの対話による協奏曲である」ということを視覚からもはっきりと示す配置でした。それを目の当たりにする、というのは、やはりインパクトがおおきいですね。これも「見るスコア」効果です。
 何回でも繰り返してしまいますが、この日のティンパニはホンマに素晴らしかったです。エマニュエル・パユさんの長い長い独奏、というより独白につかず離れず、女房役のように寄り添うティンパニ。まるで義太夫の太夫と三味線を見ているかのようでした。奏者の技量のなせる技であることはもとより、あの配置だからこそ引き出せたものもあるのではないか、と思います。


 さて、去年、オリンピックの直前の「クラシック音楽館」で、ニールセンの2つの交響曲が放送されたのも、まだ記憶に新しいところです。とにかくすごかったから note でも記事化したかったけど、不調が続いていたのでできませんでした。
 だからいま、書いちゃいます。

 まずは、パーヴォさん指揮による、交響曲 第4番「不滅」。手放しの上出来、というわけではなかった、けど、画期的な演奏で、また見たい、と思わされる演奏会でした。なによりも、いつもはシベリウスのような渋めの表情をしているパーヴォさんが、ニールセンの音楽のように晴れやかに笑んでいたのがうれしかったなぁ。N響メンバーの熱意と集中も、演奏する姿から如実に伝わってきました。ひさしぶりに、90年代のN響の艶やかなサウンドの片鱗を聴くことができたのもうれしかったです。
 「不滅」にしてはゆっくりとしたテンポでした。大仰に音を鳴らすわけではない、けど、どこで何が鳴っているかちゃんとわかる。そんな演奏でした。初めて聴くような「不滅」……うーん、うまく説明できない。
 機会があったら、コンサートαで流してほしい!

 そして、この日のカメラワークがめちゃくちゃ面白かったです。なぜかというと、野球の生中継っぽかったからです。とくにそれは第1楽章の前半で感じました。
 テレビで見る野球って、基本的に、ずっと、投手と打者のやり取りを映してますよね。で、突発的に盗塁!、なんてことになったら、急にカメラが一塁に向きを変える。この「突発的で急」な感じが、なぜか、クラシック音楽の演奏会の映像にあらわれていたのです。私は、「今日の映像はなんでこんなに忙しいんだ!」とびっくりしながら見てました。マジで、空耳で「あ、ビオラ……ビオラが演奏されています!……いや、すみません、たったいま、ティンパニの情報が入りました。映像を切り替えます!……さて、木管楽器の方ですが……ただいま、こうなっているようです」みたいな、現場感あふれるアナウンスが聞こえてくるかのように感じていました。
 最初は「カメラマンが慣れてなくて、カメラの動きが追いつかないのかな?」なーんていぶかしんでましたが、そのうちわかってきました。これはそもそも、「不滅」がそのくらい忙しい曲だ、ということです。オーケストラのあちこちで、誰かしらが何かしら、つねにおしゃべりし、発言をしている。ニールセンは楽譜の中で、おしゃべりの焦点がどこにあるかを示しているだけです。そしてカメラは、ニールセンがスポットライトを当てたところを順繰りに映しているだけなのです……にしても、その入れ替わりが目まぐるしい!(@_@;)
 つまり、「ニールセンが対位法を突き詰めていったら、こうなった」ということを映像化したら、こんなふうに忙しい映像になっちゃったんでしょうね。

 ……なーんてことを書いた数時間後のたったいま、気がついたのですが、さっき「フューン島の少年時代」から引用した部分に、「不滅」を理解するヒントがあったじゃないですか!

 初めのうちは、それがほんとうの音楽だとは思えませんでした。メロディはどこにあるんでしょうか。同じ音形が何度も出てくるというのは、何を意味しているんでしょうか。右手の部分に歌がありません。対位法というのがあるのを私はまったく知りませんでした……時折ふと、いくつかの音がぶつかりあって小さな輝きを発し、それが私の知っていたどんな音楽ともまったくちがった仕方で心を打ってきました

 確たるメロディがどこにあるか分からないし、確たる歌い手がどこかにいるわけでもない(だからカメラが右往左往するし、聴いた印象もとっちらかってる)、だけど、音のぶつかりあいが火花を散らし、未知の感動をもたらせる……これが「不滅」の枠組みであり、魅力! これまで、「不滅」のなにがすごいが全然わからなかったけど(しかし、異常な魅力は感じていたけど)、やっと言語化することができました。中学生の時から数えて、30年以上かかった……初めて「不滅」の第4楽章を聴いたとき、「こんなにクラシック感の無いクラシックとかマジでイケてる」と夢中になってからずっと、「斬新すぎてカッコいい。しかし、とっちらかりすりぎてわけが分からん」と悩んでいましたが、ついに自分でも説明できる日が来た!(๑•̀ㅂ•́)و✧
 私は、グノーの「アヴェ・マリア」の伴奏として、そうとは知らずに「平均律クラヴィーア曲集」第1巻の第1番のプレリュードだけは趣味で練習していたので、頭のなかで楽譜付きで鳴らすことができるのですが、ひとつの分散和音を左手と右手で分担する感じ、だからといって、左右の手が境目無く融合しているわけではなく、独立して、それぞれ別々の音楽を鳴らしている、そして、それらの運動と明確なメロディラインを持たない音の印象のはてなき繰り返しが、確かに有意味な音楽として感じられる……この感じ、「不滅」の印象と完全にシンクロします。例えば冒頭の、全木管 vs ティンパニ、からの、全木管 vs 全弦楽器の掛け合いなんか、まったくもってあのプレリュードの右手と左手と同じ感覚です。

 そして、この感覚を応用すると、いままで頭のなかでバラバラになってどう再生したらいいかわからなかった「不滅」がキレイに鳴るじゃないですか!

 ここにもバッハきたかー!!!!!

 これ、私のなかでは、ストラヴィンスキーの「春の祭典」なんか屁じゃないくらいスキャンダルな気付きです。
 「初めのうちは、それがほんとうの音楽だとは思えませんでした」ということばは、満腔からの称賛として、ニールセン、あなたに捧げます。これからは、頭のなかの本棚の「平均律クラヴィーア曲集」のとなりに、「不滅」のCDを並べることにします。
 さらにつけくわえるなら、メロディも歌もないのにちゃんと音楽に聴こえる、というのは、まさしく自然の音です。ウグイスの声も、電車のモーター音も、実は、単品だと単にそれだけのもので、風の音や街のざわめきと重なってはじめて趣が溢れ出します。まったくもって対位法的であるし、晩年のニールセンが能の音楽のような、自然のざわめきを想起させるような曲へと向かっていったのも、当然の帰結だったのかもしれません。


 ついつい「不滅」でヒートアップしてしまいすみません。はなしをもどしますm(_ _)m

 「クラシック音楽館」で2番目に、「不滅」に引き続くようにして放送されたのが、ブロムシュテットさん指揮の交響曲 第5番。このときは、ブラームスのバイオリン協奏曲とカップリングされていたと記憶しています。
 インタビューでは、ブロムシュテットさんが、ブラームスがバロック音楽を敬愛していたことと、ニールセンは実はブラームスの音楽の継承者である、というようなことを述べていたのが印象的でした。また、ステンハンマルの放送回では、ステンハンマルはベートーベンを引き継いでいる、と述べていました。
 バッハからのニールセン、というのは、以上に述べてきたように、私にはよくわかるのですが、ブラームスからのニールセン、というのはいまだに腑に落ちていません。ただし、ブラームスもニールセンもともにメインのレパートリーとするブロムシュテットさんがいうのだから、なにか理があるはず、と受け止めて、これは今後の研究課題、ということにしています。

 さて、この第5番。さらに、その翌週に放送された、グリーグの「ペール・ギュント」とドボルザークの交響曲 第8番。N響屈指の名演だったと思います。最近のN響は、終楽章が音量不足で物足りないまま終わる、というのがよくあったのですが、これらはまったくそうではなかった。生気あふれる音色で、堂々と充実したフィナーレを聴くことができて感無量でした。
 そして、ニールセンの第5番ドボルザークの第8番に共通して感じられたのが、① テンポがゆっくりであること。それから、② 音量も控えめであったこと。これは、小さくて不足していた、という意味ではなく、しっかりと抑制され、居丈高な雰囲気がなかった、という意味です。平たくいうと、物量で興奮や感動を煽るだなんて姑息なことをしていなかった、という意味です。私は、ニールセンに対してはとかく、速くて賑やか、という印象を持ちがちだったので、この時点で驚愕です。
 さらに、③ 楽曲や作曲家の持ち味が控えめだったこと。こんなにスラブスラブしてないドボルザークは初めてでした。私は、ドボルザークには若干苦手意識があったのですが、それは強調されたスラブ感に対してであって、ドボルザーク自体にではなかった、と気付かされました。ノリ的には、親戚のヒゲもじゃのおじさんが、正月に突然ヒゲを剃って帰ってきたら、予想以上にナイスガイで、好感度があがった、という感じです。ニールセンの第5番、といえば、第1楽章の縦横無尽に暴れる小太鼓と金属系打楽器が最も特徴的で、楽しみにしていたのですが、これがグッと控えめで、画面に映る回数や時間も少なかったのです。ただし、私の記憶では、これらの楽器が指揮者から見て右手奥に配置されていたと思います。おそらく、音が最も効果的に聴こえてくる位置として、ブロムシュテットさんが配置したのでしょう。私はこれは、打楽器の奇矯さに注目を奪われずに、もっと全体を見て!、というブロムシュテットさんからのメッセージだと勝手に解釈しています。
 それから、いちばん驚かされたのが、④ いつどこでどの楽器が鳴っているかはっきりわかる演奏だった、ということです。ひとつひとつ腑分けするように演奏されているのを、カメラが追いかけて、ひとつひとつの楽器を映していくわけです。まるで、ブロムシュテットさんから、交響曲の授業を受けているようでした。これぞまさしく「見るスコア」、NHK の面目躍如です。とくに第5番については、まるで、巨大な首長竜を解剖して、ひとつひとつの内臓を切り分けながら解説されているような気分になりました。もし、日本人がニールセンをレパートリーとして手中にしたいなら、これを教材にして学べばいい、とブロムシュテットさんからプレゼントしてもらったような気持ちです。

 ただ、残念だったのは……ニールセンとドボルザークの放送回で見られた好演が、3週目のベートーベンの交響曲 第5番「運命」の日には影をひそめてしまったことです。この日の演奏は、端的にいうと「何を言いたいのかよくわからない」演奏でした。私の感覚では、バイオリンがひとり暴走しているように感じられました。
 この日のコンサートαで放送された、ニールセンの序曲「ヘリオス」(2000年代の演奏会の録画)も同様で、はっきりいって、これをニールセンだと日本人に理解されたら困る、酷い演奏でした(私は「ニールセン入門の管弦楽曲」として「ヘリオス」をイチオシしているので、なおさら困惑、としかいいようがありません)。何を言いたいのかよくわからないし、ホルンが一番かっこよく鳴るところで、バイオリンが全く噛み合っていませんでした。さすがにこれはブロムシュテットさんのコンディション云々ではなく、N響の側に要因があるだろう、と理解せざるをえませんでした。
 ブロムシュテットさんの指揮する、恐竜の解剖解説のような「運命」!……聴きたかったのになぁ……。

 

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 最後になりますが、来る日曜日には、「エスパンシヴァ」が放送されます。ブロムシュテットさんがどんな「エスパンシヴァ」を披露してくれるのか、ということと同時に、NHK がどのように映像化してくるか、というのも楽しみのひとつです。
 だって、「エスパンシヴァ」もなかなか忙しい楽曲ですからね。

 そうそう、いまやっと思い出したのですが、パーヴォさんの「不滅」を視聴しながらずっと感じていたのは、「『不滅』って、ふらのの全員サッカーみたい」ということ
 ……いきなりの「キャプテン翼」ネタですみません。松山光が主将のふらの中学校は、超絶的なスター選手が引っ張るチームではなく、際立ったスーパーヒーローのいない、ふつーの選手らが一丸となって協力しあいながら戦うチームだったと記憶しています。
 それ同様、全楽器が主人公で、全員に同じだけスポットライトが当たり、そして全員が忙しい。映像からも音楽からも、そんな印象が強かったです。映像については、こんなに均等に各楽器が画面に映るなんて、私の目がおかしかったんじゃないか、と疑問だったので、その後数回にわたってニールセン以外の楽曲の映像を凝視してたのですが、かん違いではありませんでした。やはり、たいていのクラシックの曲は「なんだかんだいっても、やっぱりバイオリンがメインだよねー」っていう印象で終わるんです。映像においてもニールセンの個性が際立つあたり、NHK の「見るスコア」はよく機能していると思います

 とはいえ、全員参加は「不滅」だけの専売特許、ってわけじゃなくて、「エスパンシヴァ」だってそうです。あっちこっちで音が鳴り、掛け合いをし、ひょいっと斜め上から合いの手が入ってきます。「不滅」との違いがあるとしたら……そうですね、「不滅」は2〜3音がひと単位でコロコロ切り替わる印象だけど、「エスパンシヴァ」はもうすこし多めの個数の音で切り替わっていく感じで、忙しいけど、「不滅」よりは息が長い印象です。なので、「不滅」のようなとっちらかった感じは無いです。
 それに重ねて「エスパンシヴァ」は、対位法を頭に入れてスコアを眺めていると、奏者全員があっちこっちで楽しめるように書かれているように見えてなりません。まるで楽譜自体が、ニールセンの父親の楽団の和気藹々とした雰囲気を再現しているかのようです。もう、楽譜の絵面を見てるだけで、演奏するひとの楽しさが想像されてウキウキしてくる!


 個人的には第2楽章がどんな映像になるか楽しみにしています。この楽章は、「不滅」よりもメロディを追いやすい「エスパンシヴァ」のなかで、最もメロディが茫漠としていてとまどう楽章です。じっくりカメラの行方を追いたいと思います。
 また、木管の奏でる鳥の複雑なさえずりのような主題の絡み合いは、夜の闇、もしくは朝靄のむこうから聞こえてくるようでとても美しい。私は、N響には自慢できるものが2つあって、ひとつは2つの個性が競うダブル主席のティンパニで、もうひとつは木管群のたおやかな音色、と思っています。その木管がどのようなさえずりを聴かせてくれるか、楽しみです。
 もっとつっこんでいうと、第2楽章の散漫さは、早朝に鳥の声がおちこちから聞こえくるのをそのままコピーして音楽にしているからなのでは、なんて勝手な想像をしています。で、この楽章に挿入されるソプラノとテナーの声は、鳥よりは遅起きの人間たちのあくびと朝の会話、だとおもってます。音声としては「a」だけなのですが、よくよく聴くと、なにか会話のような抑揚をもっているんですよね。それでねぇ……楽章をしめくくるフルートが「そしてふたりは幸せに暮らしました」とでも語っているように聴こえてならないのです。

 それと、第4楽章。何回聴いても、第一主題はこの歌↓にしか聴こえない。関連はあるのかなぁ?
 とくにブロムシュテットさんの過去の「エスパンシヴァ」の録音からは、この I aften (今夜に)を意識している気配を濃厚に感じるので、どのように指揮をされるか興味津々なのです。

 ちなみに、もし、ニールセンの作った歌に興味がある方、この歌、I aften と、先に掲げた Jeg bærer med smil min byrdeDen danskesag er en ung bland pige (デンマークの歌は金髪の少女)の3つが傑作、かつ、入門に最適です。うちの YouTubeチャンネルでもリスト作ってます(^O^)v


 先々週のマーラーの交響曲第9番はやや散漫な演奏でしたが、先週のシューベルトはあたたかみと聴きごたえのある演奏でした。だけど、予告映像で流れた「エスパンシヴァ」の断片は、それよりもさらに上をいきそうな予感……なんていうのは、はしゃぎすぎかな(^^ゞ

 週末の夜は、みなさんもニールセンとともに、ヒュッゲなひとときを過ごされますように!( ´ ▽ ` )ノ




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いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。