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音楽とことば〜根を同じくするもの

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音楽についてのnoteを集めます。ことばについてのnoteも集めます。どちらも、人間の鳴き声、歌声であるという点で、本質的に同じなので、分離するのが不可能です。
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#エッセイ

今年、うぐいすの初鳴きがみょうに早かっただけでなく、聞いたことないくらい下手くそで、毎朝はらはらしています。また、昼過ぎに初めての谷渡りを聞いたのですが、「けっ、きょっ、けっ、きょっ、けっ……」と空前絶後のたどたどしさに絶句。無事に上達できるか、マジで不安です。がんばってくれ……

邦楽と雪と北海道と

 すばらしく勘の良い方や前のものを読まれた方ならもしかしたらお気づきかもしれませんが、私は北海道に住んでいる者です。これを書いている時にnoteに登録している名前も、北海道の地酒「國稀」からとっています。  北海道に住んでいるとなんとなく聞くラジオの局もほとんど北海道のものとなり、そのラジオから流れてくる曲も自然北海道出身もしくは北海道を拠点に活動している方々のものが多くなります。そうすると、ラジオ経由で新しくミュージシャンを知るとなると北海道出身者が多くなるのです。ラジオ

フルート協奏曲【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

ニールセン (C.Nielsen) 作曲 Koncert for fløjte og orkester (CNW42 /1926年)    フルート協奏曲   こんど、11月10日(日)のクラシック音楽館(NHK)では、パーヴォ・ヤルヴィ指揮で、ニールセンのフルート協奏曲が放送されます。せっかくなので今回も、観賞の参考になることを書いておきたいと思います。 N響第1920回定期公演 (2019年9月825日、サントリーホール) 指揮 パーヴォ・ヤルヴィ   トゥール 「ル

子どもが、長調と短調が聴き分けられない、というので、曲を聴きながら「はいここ、短調……で、今は長調」とかやってるうちに、「いや、あたし、どうして雰囲気で分かるんだ?てか、いつどこで習った?」ってもやもやしてきて、そのうち、ほんとにこれで合ってるのか、自信もぐらついてきたりして……

今日もしとしと雨が降っています。ときおり強い風が吹いてくると、竹藪がざわつきます。そしてときならぬ、ばらばらばらばら……っ、という音に耳が驚きます。ああ、葉先にはどれだけの水滴が宿っていたのだろう、と脳が感じます。耳も脳も、こうやってしずかに、あたりの情報を収集するのが好きです。

ひさしぶりにあたりが水色に薄明るい時間に目が覚めました。これでもかというくらい鳥の声があふれていることに、季節の移り変わりを感じます。 思い切り、鳴きたいだけ鳴き交わしたか、いま、潮が引くように静かになってきました。が、まだ何羽かはごきげんでさえずっています。以上、中継でした。

Bøhmisk-Dansk folketone ② 【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

 YouTubeで、再生リストを公開しました。 ニールセン (C.Nielsen) 作曲 Bøhmisk-Dansk folketone Parafrase for strygeorkester (CNW 40 /1928)   弦楽合奏のためのパラフレーズ「ボヘミア-デンマーク民謡」    今回も長編になったので、土日のお休みで、前回の記事と合わせて、ゆっくりお楽しみください。    さて、まずは前回の復習からまいります。 まず大前提として、この Bøhmisk-

Nu sol i øst oprinder mild 【C.Nielsen】《私的北欧音楽館》

YouTubeで、新しい再生リストを公開しました。 ニールセン (C.Nielsen) 作曲 Nu sol i øst oprinder mild (CNW186 /1914年) C.J. Brandt 作詞   (仮訳) いま日は東から穏やかに昇る    べつに今日から年号が「令和」に切り替わったからどうこうとか無いのですが、別の曲を聞こうとして、たまたまこれもついでに聞いたら、曲調が今日という日にどハマリだったので、まあせっかくだから、「令和元年」の初日の今日、公

不調で長文がかけなくなっていました。ひさしぶりにふと長くかけたら、ひさしいあいだ聴くのがしんどくなっていた交響曲が聴きたくなりました。しょぼかった晩ごはんも、おかず多めで出来ました。ということは、この三者はバラバラの事象ではなく、ひとつにつながっているのでしょう。脳の不思議です。

この冬は思いのほか不調だったらしく、最近やっとなにげに鼻歌を歌っている日が増えてきた。歌は生命維持には直接必要ないから、しんどいときにはなりをひそめるけど、回復するとまっさきに帰ってくる。なるほど、人間ってそもそも歌うようにできているようだ。生きると歌うは切り離せないものらしい。

お笑いの世界に「歌丸さんのような辛口の人がいてほしい」と待ってる人は少なくないと思う。ではなぜ、歌丸さんが皆の敬意を集められたか。それは、ひとつの言葉もおろそかにせず、打ち込むべきところにピシリと打ち込む人だったから。そして、容易に炎上するような軽い言葉とは無縁の人だったから。

「ことば」はかるくむなしいので「言羽」とのあて字もあったけど、「言葉」が生き残った。それは、言葉というものは、重なることで紅葉の如く彩をなし、連なることで草木の如く自ら伸びていくことを、人々が無意識のうちに知っているからで、ゆえに現代でも「万の言の葉」との表現が古びないのだろう。

「言葉」ということばはなぜ葉っぱなのか?と子どものころから疑問でしたが、なんのことはない「ことの端」に「葉」の字をあてただけでした。でも、ひとつの言葉はことの「端っこ」にすぎないのに、指ししめす事象の名称として「全て」である。軽いけど粗略にできないのは、まるでマッチ棒のようです。

「僕らは奇跡でできている」第7話 いい内容だったので、ひさびさにクラウドワークスで感想を書きまくって小銭をもうけました。書いてる間ずっと、耳の中ではクラリネットで奏でられる一輝のテーマが流れていました。 いいドラマは、本質をとらえたいい音楽に支えられている……とつくづく思います。