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音楽とことば〜根を同じくするもの

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音楽についてのnoteを集めます。ことばについてのnoteも集めます。どちらも、人間の鳴き声、歌声であるという点で、本質的に同じなので、分離するのが不可能です。
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2019年2月の記事一覧

「ことば」はかるくむなしいので「言羽」とのあて字もあったけど、「言葉」が生き残った。それは、言葉というものは、重なることで紅葉の如く彩をなし、連なることで草木の如く自ら伸びていくことを、人々が無意識のうちに知っているからで、ゆえに現代でも「万の言の葉」との表現が古びないのだろう。

「言葉」ということばはなぜ葉っぱなのか?と子どものころから疑問でしたが、なんのことはない「ことの端」に「葉」の字をあてただけでした。でも、ひとつの言葉はことの「端っこ」にすぎないのに、指ししめす事象の名称として「全て」である。軽いけど粗略にできないのは、まるでマッチ棒のようです。

楽器を弾かない人も、話している限り、一人のミュージシャンである。

note(ノート)の方では、できるだけproactiveなことを書きたいと思っている。  言葉には音楽としての側面があり、言葉の選択や、発するリズム、イントネーション、間のようなものが心地よく響くことがある。  まったく同じ事を話しているのに、なぜかストレートに伝わってくる人と、全然心に響かない人がいるのは、つまり、音楽としての性質に差があるからだ。  楽器を弾かない人も、話している限り、一人のミュージシャンである。自分の言葉が周囲の人に与える影響に、できるだけ敏感にな

評論とはかくも創造的な行為なのか (伊藤玲阿奈)

指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第1回 “The Lives of the Great Composers”(注1) by Harold C. Schonberg 1997年4月 『大作曲家の生涯』(上・中・下 全三巻) 著:ハロルド・C・ショーンバーグ 訳:亀井旭・玉木裕(共訳) 共同通信社、1984年7月 評論するということ、つまり作品や人物の価値を判断して人に伝えるということは、まぎれもない創造的な行為だ。優れた評論ほど、読んでいる私たちと評論されている