見出し画像

第12回の3:パンクに続きニューウェーブも始まって、奥平イラはメトロポリスになった

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


日本でも見られるようになったセックス・ピストルズのドラマは、正直言うとジョニー・ロットン役の人が(頑張ってはいたが)似ていなかった(せめて歌だけはもうちょい真似して欲しかった)のと、話を盛り上げるために誇張した部分(スティーヴ・ジョーンズとクリッシー・ハインドの関係)や時系列問題(ボンデッジ・パンツの登場が早い)に目をつぶれば、自分のようなピストルズでその後の人生が決まった人間(マニア)が見ても面白かった。

ドラマを見れば分かるように、ロンドンではボウイに影響を受けた人間がパンクを始め、熱狂的ボウイ・ファンだったジョン・サイモン・リッチーも長かった髪を切り、不慣れな楽器を手にしてシド・ヴィシャスと名乗るようになるのだが、1977年の日本では実際のバンドがすぐ目の前にいたわけではなかったので、パンクを好きになる人は好事家だけだった。そしてパンクを嫌う人たちのほとんどはロック・ファン(日本ではまだパンクがそれほど知られていなかった)で、まずあんな下手くそな演奏のどこが良いのか、という意見が大半であった。中学から高校になる自分にとっては、情報と写真と録音ブツを聞くだけでもパンクは重要なものとなったのだが、周りにハマる人はいなかった。逗子にはいなくても東京なら、と思って東京の学校に通い始めても、パンクを知っているような人は皆無。マイノリティな存在。当時のマジョリティは圧倒的にイーグルスとかドゥービー(・ブラザーズ)だった。そんな東京でチラホラと点在していたパンク好きの人たちは、徐々に知り合いとなり、それが後の東京ロッカーズや〈ナイロン100%〉や〈ツバキハウス〉にて交錯することになる。

奥平イラは、森脇美貴夫と高円寺のロック・バーで出会ったことが、キャリアの始まりとなった。

「森脇美貴夫と友達になってから『なにやってるんだ?』って言うから、漫画描いてるって言ったら『こういう雑誌やってるから描いてみないか?』って言われて、好きなものを描いたんだ」

『ZOO』の13号から3回に分けられて掲載されたパンク・コミックが奥平イラのデビューであった。このコミックのカッコよさは頭抜けていた。当時メジャー漫画家の鴨川つばめも『マカロニほうれん荘』でパンク(セックス・ピストルズ)を絵のモチーフに取り入れていたが、奥平いら(最初はひらがな表記)は絵だけでなく、漫画自体がパンク・ロックだった。ちょっとパンク聴いてます、ぐらいな感じではなく、完全にパンク・ロックの感覚が入り込んでいるコミックだった。

「あの頃は漫画描きながらだったけど、友達も来るからおもしろいんで週2回ぐらい新宿レコードでも働いてたんだ。ていうのも、パンクのこと、僕以外誰もわからないんだよ」

コミックの連載を始める前に、イラさんは『ZOO』の12号ではイラストレーションとともにパンクのシングルを何枚か選んで、かなり細かい原稿を寄せている。 

「当時7インチどこも取ってなかった。辞書で調べながら新聞を読んでチェックして、注文した。スティッフ・レーベルの1番から、とか」

『ZOO』は77年の12号の段階でニューウェイブと言う言葉を使っているが、これはおそらく当時細かく音楽新聞をチェックしていたイラさんの貢献だろう。

そんな76年から77年にかけてのパンク初期の時代を経て、1978年から79年にかけて、時代は本格的にニューウェーブに突入。奥平イラも新宿レコードに週2で勤めながら、『ガロ』に2回目の持ち込みをする。

「最初持ち込みした時は長髪でさ、それこそフォークな時代に影響受けたのを描いてたから、オリジナリティもなかったわけ。それから2、3年経って持っていった時は蛍光黄緑のパンツにピンク色のシャツ着ててさ。で、その時漫画を見てくれたのがナベゾ(渡辺和博)さんだったんだけど、のちにナベゾさんが言うには『漫画がどうのこうのより、あんたの格好が面白かった』って。『アタマ、ツンツン立ててパンクな奴が漫画描いてるだけで面白い』って言われた」

ナベゾさんの感覚もすばらしい。ナベゾさんは1980年代アタマに出た『日本のパンク・ロック』という日本におけるパンク/ニューウェーブバンドに関しての最初の集大成的ジンの表紙の絵を描いている。

「新宿レコードにはいろんな人が来てくれてて、葡萄のアオちゃんともそこで仲良くなった。その頃はパンクとニューウェーブの頃だったけど、アオちゃんはブリティッシュ・ポップのねじ曲がったようなセイラーとかデフ・スクールとかビー・バップ・デラックスとかオーケストラ・ルナとか、そういうのが好きって言うんで話が合ってね。デフ・スクールがあまりにも好きすぎて、手紙出したらしいんだよ。そしたら返事も来たりして、ファンクラブ作るってなって。スージー甘金も葡萄のファンでさ、3人だけでバッヂ作って盛り上がったりしてた」

細野晴臣さん、久保田真琴さん、鈴木慶一さん、遠藤賢司さん、あがた森魚さんと言った70年代の最初の頃はアメリカン・ロックやフォークに影響を受けた音楽をやられていた方々が、ニューウェーブで突然変化し始める。その中に葡萄畑の青木和義さんもいたわけだが、もしかしたら青木さんは、そういった方たちの中でも早い転向だったかもしれない。

「漫画を描き始めた自分は、その後音楽の方もやりたいってなって、まずパンク・バンドをやった。ギター弾いて、ベースは川田良だった。ドラムは陶山浩司って言う川崎敬三の息子で、バンドの名前は切腹ピストルズ。で、ライブ1回だけやった。下北の5番街(レコード店)で。対バンがジュネ(オートモッド)のバンド。客なんか10人ぐらいしかいないんだけど、ジュネは剃刀で胸切ってた。それ見て『パンクはここまでやらないとダメか』となって」

あの頃、自分も〈怪人20面相〉のパンク・フィルム・コンサートを見に行ったら口に安全ピンをぶっ刺している年上のお兄さんを見て、パンクはここまでやらなきゃダメなのか、と思ったりしたことを思い出す。

「その後コルグのMS20買って、自宅でピコピコやり出すんだ。バンドとしての葡萄畑も解散して、アオちゃんとキーボードの佐考(康夫)さんと2人だけで78年ぐらいに渋谷の〈ジァン・ジァン〉でマンスリーライブをやってたんだ。僕はそれを通って見に行ってて、その時意を決して、自宅で作ったデモテープをアオちゃんに渡すんだ。そしたら一緒にやろうって誘われた。それでドラムの陶山さんを誘ってアオちゃん達とメトロポリスってバンドを始める。クラフトワークっぽいのとクレイジーキャッツが一緒になったのをやろうとした。〈ジァン・ジァン〉で1年間やった」

78年にはダウン・タウン・ブギウギ・バンドのサポートでプラスチックスもリズムボックスを導入してのライブを始め、自分は遠藤賢司のカレー屋で、最初のプラスチックスを見ることになるのだが、イラさんのバンドは知らなかった!

「やってる事は完全にお笑い寄りで。クラフトワークっぽいベースラインを使って『二人の銀座』をやったり、ボリウッドなインド音楽をテクノ・アレンジしてました。若気のいたり、、、、またそのうちやろうと、青ちゃんと話してます」

(つづく)


1978年当時のメトロポリスのアーティスト写真。
左上から時計回りに:青木和義、佐孝康夫、陶山浩司、奥平イラ
こちらも78年〈渋谷ジァン・ジァン〉にて、メトロポリスのライブの模様



高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?