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連載 第十四回:愛すること憎むこと÷死別

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 萩尾望都さんの短編漫画「半神」は、体の一部がくっついた双子ユージーとユーシーの物語。ユージーが作る栄養はほとんどが妹のユーシーにとられ、その栄養によって妹は美しいがユージーは栄養不足で肌も髪もボロボロだ。そしてユーシーは知能が低く、言葉もほとんど話せないから、ユージーがずっと妹の世話をしている。ユーシーの内臓は自分で栄養を作ることができない。妹の分も栄養を作り続けるしかなかったユージーはそのうちに体が限界を迎え、せめてユージーが生きられるようにと大人たちは二人を切り離す提案をした。ユージーはそれに喜んで賛同したのだ。

「この子が養分を取るおかげで わたしは髪もはえず 誰からも愛されないのだ」
 この、ユージーの言葉。ここにある「誰からも」というのはユージーの外見のことをとやかくいう叔母たち他人のことも含まれるが、しかし彼らよりもずっと、ユーシーの世話をほとんどすべてユージーに任せている二人の両親のことを指しているのではないかって私は思っていた。ユーシーはとてもかわいらしく、天使のようで、でも自分では何もできない。食事もうまくできないしお風呂にもちゃんと入れない。むしろだからこそ、両親には天使のように見えるのかもしれない、無垢で、守るべき存在だと思うのかもしれない。だから自分達がユーシーを愛でるように、姉にもそれを望み、なだめもする。妹を愛しなさい。けれど食事ができないユーシーを支えて食べさせているのはユージーだ、お風呂に入れてやっているのもユージーだ。手間がかかることよりその無垢さが愛おしいと思えるのは、その手間を負担する別の存在がいるからにすぎない。ユージー。二人の両親がユーシーを愛せているのは、あきらかにユージーのおかげだ。
 ユージーは頭が良く、気もきいて、考え方も大人びている。だからこそ両親はユーシーをユージーに任せることができ、結果的に、ユージーはその長所で両親に愛されるどころか、妹に両親の愛が集中していくトリガーともなっていた。妹に栄養をとられ自分の外見がボロボロになることだけが彼女の「愛されない」理由ならば、彼女はここまで孤独にはならなかったのではないか。どんなに美しい子も、どんなに天使のように無垢な子も、世話に苦労し、自分の時間が取れなくなれば人はストレスを感じるし、のびやかにその人を愛することはできなくなっていく。それは心の狭さとかではない、愛の足りなさではない、両親はずっと自分達がユーシーを愛するために、ユージーがユーシーを愛する機会を奪っていたのだ。

 ユージーがユーシーと体を切り離す決断をしたのも、そうやって妹を愛せないままきてしまったからだろう。そして、妹を愛せないことこそが彼女の孤独の軸にあるのだろう。
 けれど「妹を愛さない」は、明らかに、ユージーが望んで選んだことではない。ただ周囲がそう誘っていっただけだ。彼女は本当に妹は死んでもいいと思いたかったのだろうか、自分が死ねば妹も死んでしまう、だからせめてどちらかは助かる手段をと大人は説明する。けれど、彼女にとっては「妹から解放されるチャンス」でもあった、危険な手術だって、それなら恐ろしくないと彼女は思った。「妹から解放される」と思ってしまったその感覚が、本当に自分の心からの思いだったのか、彼女は次第に判断できなくなっていく。妹は何もわからないから、死んでも気づかないだろうとあの日、彼女は思った。けれど、そんなことを思わせたのは彼女でも彼女の妹でもなく、彼女の両親だったはずだ。
 死んでいくユーシーが、ボロボロだった自分にそっくりで、ユージーは自分が死んでいくようだと錯覚する。栄養が戻りきれいになっていく自分を鏡で見て、ユージーは自分が妹のようだと錯覚する。本当はどちらが死んでしまったのだろう。本当に自分は「ユーシーは死んでもいい」と思ったのだろうか。取り返しがつかなくなってから、ユーシーは自分がした決断にあったはずの「嫌悪」の正体がわからなくなる。本当に私は、妹を愛してなかったんだろうか。

「本当は愛していたに決まっている」とここで書くことは私にはできない。双子だからこそ、家族のサポートがあれば二人は仲良くできただろうと言い切るのは難しい。体がくっついていて、常に一緒にいなければならないことは変わらないし、関係を妨げるものがなくなれば家族なのだから二人は仲の良い姉妹になったはず、なんて無責任なこと、私はどうしても言いたくない。血がつながっていれば本来は愛しあえる、なんていうのは幻想だ。ただここにあるのは、彼女が妹を愛せなかったのは両親の行動が原因で、妹そのものの問題ではない、ということ。好きなのか嫌いなのか、自由に思うこともできなかった。個人として、憎むことさえ、ユージーはできていなかったのだ。
 たった一人の妹なのに。愛せたはず、ではなくて、二人の間に生まれたはずの「愛」や「憎しみ」が最初から奪われ、可能性が根絶やしにされ、そしてそのまま関係が終わってしまったこと。その最後の「決断」をユージーがしてしまったこと。だからこそユージーはいつまでも、生きている自分に妹を見て、妹の死に顔に自分を見続ける、二人が生きている頃、憎み合うことも愛し合うこともできた頃、最後までまともに見つめ合うことができなかったから。

「愛よりももっと深く愛していたよ おまえを 憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよ おまえを」
『半神』のラストにあるこの言葉。だからこそここで「愛していたよ」「憎んでいたよ」なのではないかって私は思う。妹は死んで、ここからいなくなってしまった。憎むことも愛すこともできなかったと気づいたとき、私と妹の境界が曖昧になる。私たちと言いながら、私はその半分の存在をちゃんと知らなかった。そこから「私」一人になって、それがどうして私だったと、妹ではないひとりの「私」だと、わかるんだろう。私は妹を見ていなかった、それは「私」を見ていなかったとも言える。
 いなくなった人の取り返しのつかなさが、ぽっかりと穴を開けているみたいだ。あったかもしれない、でももう生まれることもなく消えてしまった愛情と憎しみの関係性だけが、じっと震えるように残る。愛していたよ、憎んでいたよ。どこにも、届かない言葉になる。

・『半神』(萩尾望都 ・著)| - 小学館コミック
https://shogakukan-comic.jp/book?isbn=9784091910172



最果タヒ
さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。

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