見出し画像

連載 第二十四回:言語化÷あなた

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 考えていること、言葉にならないことを、別の誰かが輪郭のはっきりした、けれど何も取りこぼすことのないように意識した繊細な言葉で語る時、その言葉によって視界が晴れたり、心地よくなったり、することはある。私は物を書くから余計に「言語化されることの心地よさ」について感想をもらうことはあり、それはとても嬉しいけど、でも、それを飛び越えていける人の力も知っているつもりだ。『違国日記』は、作家で言語化に優れた叔母に対して、主人公が言った「なんで一言ただあたしをあいしてるって言えないんだよ」が本当は、全てなのだと思う。それは私が「書く」ということを仕事にしているからそう思うのかもしれない。本当に大切なのはそれでは「足りない」と伝えられる叔母なのかもしれないが、でも私は「なんで一言」と言える人がいる世界だからこそ、人は言葉を超えていけるのだと思う。そんな人たちのために、無数の言葉は、あふれるような「言語化」は、あるようにも思う。うまく伝えきれなくても、伝わるのだ、人は。互いを信じていれば。
 その事実こそが本当は、言葉を紡ぐ人にとっての勇気になる。

 あのとき何もいえなかった、自分がどう思っているのか自分ですらわからなかったと後悔した過去をきれいな水で洗って、そして本当の言葉を見つけていくような、そんな読後感に浸ることが「違国日記」には多くあり、この物語の中でもう一度自分自身の「あのとき」を思い出す人は多いのだろうなぁ、と思いながら読んでいた。必要としていた言葉にここで出会えることもあるし、出会えなくても改めて、今の自分の言葉で語ろうとするそのきっかけにはなるのかもしれない。
 人はどうして、言葉にしたがるのだろう。私はよく昔のことを思い出したり、考えてしまったことを改めて原稿で書いてみたりするが、本当はそのとき、その瞬間に生きていた時、そこまで私は深く感じ取っていただろうか、考えていただろうか、と書いていてよく思う。あとあと言葉にすると、あたりまえのようにするすると、当時見ていなかった奥の方へと潜っていけるけれど、でも私は多分その場その場では多くのことをやり過ごしていたはずなんだ。もちろん、それでも自分の心は稲穂のように色々な風に揺れて、ざわめくのだけれど、でもそれでもそれをやり過ごしていたはずだ。
 私が私として私の人生を感じ取り続けることは、きっととても困難なのだ。物語を読んでいると、どうして、こんなにも登場人物は自分の人生から逃れられないのだろう、と思うことがある。それは、物語が現実よりもずっと全ての事柄の「輪郭」を大事にしていて、揺らぐこと、ぼやけていくことを許さないから。だからみな、自分の人生の中を生きて、自分の人生を踏まえた言葉を話す。現実に生きている人はけれど本当にこんなにも「私」なのかと、わたしはいつも思います。それこそ言葉を書こうとする時、人と見つめ合って真剣に話す時、そういう「私」を強く意識する時間を除いて、私は本当に「私」でいるだろうかと毎日のように不安になる。私は、自分がそこまではっきりした「私」であるとは思えない。もしも、書く仕事をしていなくて、SNSだとかブログだとかもなかったら、私はまず「私」のことを忘れていくだろう。それは普通のことなのだ。私は「私」そのものより、世界と対峙して生きていて、それに対して反応し続けなければならないから。溶け合って、「世界」の中に自分を混ぜて、曖昧になっていくこともある。そのなかでどうしても消えない「私」が、何かにざわめいている。誰かの明瞭な言葉でそれが呼び覚まされたり、自分で書いてみることでその輪郭が戻っていって、ああ、あのときの私はそう思っていたのだろうか、と考えてほっとしたりするけれど。でも、「そう思っていた」と言うには、ほんとはなにか違う気もした。あの時の曖昧な世界の中でただ揺れる稲穂だった私を、私は嫌いにはなれない。ただの愚かで鈍かった自分だとは思いたくない。あの頃の私なら、きっと「なんで一言ただあたしをあいしてるって言えないんだよ」と(言うべき時があったなら)言うことができただろう。その、曖昧な中でそれでも何も見えてなかったわけではないことを、大切にしたいのだ。
 人は、言葉にすることや、思考を整理することや、明瞭な視界を持つことが、すべてではない。それが「私になる」唯一の方法ではない。私は、ずっとずっとそう信じている。人は、人として存在する時点で、その人にははっきりと見えることがなくてもそれでも誰もが確かに「私」なんだよ。たとえ、どれほど「私」が見えなくなっていても、曖昧でも、鈍くなっていても、そこに確かに揺れている稲穂はあって、それがたとえ言葉にできなくても、そこにあなたの心があることを誰が否定できるだろう。言葉のために心はないし、心のために言葉があるわけでもない。どんなに言葉にできなくても、はっきりと意識できなくても、それでも「ない」ことには決してできないのが、「心」なんだ。

 言葉にするにはいつも勇気が必要だ、本当はどんなふうに話しても、「心」そのものにはなれないから。それを縛ることにもなり得るし、それを誤解させることもあり得る。言葉になんの力もないし、それなのにとてつもなく人はその影響を受ける。言葉を真実と思いすぎて、本当の真実であるはずの「心」を手放すときさえある。それくらい暴力的な存在でもあるんだ。言葉にすることは、それだけでたくさんのものを切り捨ててしまうから。だから、せめてどこまでも言葉に慎重に、そして繊細でありたいと願うたびに、言葉は私の手元で研がれ、鋭くなっていった。言葉が生き抜くための術で、武器のようになっていく中で、それでも言葉に対して必要なのは勇気だと信じられることが書き手の最大の幸福だと私は思っています。この言葉が伝わると信じられるのは、あなたの感性の鋭さを認めているからでも、あなたが私に対して心を開いているからでもなく、ただ、あなたには心があるから。それだけで、私は勇気が持てる。人だけが読む言葉を書く人間にとって、信じたいのは、きっとそれだけだ。

・『違国日記』(ヤマシタトモコ・著)
https://www.shodensha.co.jp/ikokunikki/



最果タヒ
さいはてたひ。詩人。
詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?