連載 第二十五回・最終回:「本当の優しさ」÷わたし
最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai
ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ
人は、意味もなく優しく、時には損をすることがあっても優しく、愛情深く、義理堅く、それらは突き詰めて考えれば、その人自身を追い詰める。逃げ出すことを許せず、自分を優先できず、他者のために貫かなければならないものがたくさんできてしまうから。そして、それでもそんなふうに生きたいと願うことは多々ある。賢く生きろと言わないでほしい、やさしくありたい。優しくありたいです。本当は、全ての人のために生きたいです。そんなふうに生きたって、他人も自分も誰も不幸にならないような世界だけを望んでいる。ただ一人だけ勝ち抜きたいなんて思えないのだ。そこまでの覚悟もないから。でも不幸になる覚悟もない。私は私の優しさが好きだ、幸せになりたいからと、自分の優しさを捨てたりなんてしたくない。あったかいぬいぐるみみたいなもの、そういうものを抱きしめて生きてきたはずなのだ。でも、それでもこれさえあればいいとは思えない。つらいことや、痛いのはいやだな。平穏に生きるにはぬいぐるみを置いていかなくちゃいけない世界なんだとすると、もうそれは私にとってとても怖い場所なんだ。
そう思うのは私が優しいから、ではないとわかっている。人が苦しむのは、見ているだけで苦しく、想像ができないほどの痛みがあるんだとうっすらとでも察するだけで、どこまでも考え続けてしまう。私は優先順位をつけることができなくて、やってくる情報のどれもこれもに気持ちで向き合って、そうして悲しみ、そうして嘆いて、ここにいる。誰もが幸福でいてほしいなと思う。呑気で、楽観的です。やれることがあるならやりたいと思う。でも、それらにはいつもデメリットがあり、時にはそれらが自分を追い詰める。その時に、どうすべきか、何を選ぶのか、考えるのがとても怖い。私は優しい人として優しいのではないから。強い人として強いのではないから。私は未熟だからいつも、ためらうべきでないところでためらい、時にはにせものだといわれて、それは本当にその通りだ、と頷いている。私はどうしたら、命懸けで人に優しくなれるのでしょうか。(きっとなれないのだろう。命懸けは怖いって思ってしまっているんだし。それで、そうなれない人は、どうしたらいいですか。この愚かな優しさを切り捨ててさっぱりさせるべきだとはどうしても思えない。優しくなりたいとぐずぐずとできもしないことを願う、そのみっともなさ、それを許してほしいとも思っていない。世界が美しくなればいいのにな、ぬいぐるみを抱きしめていても許される世界であればいいのにな。愚かだと言われることを受け入れるだけで、人に優しくすることを許されるなら、それなら愚か者でいたいけれど、そんな世界ですらないことは私だってわかっている。)
どうなりたいかというより、私は私のこういうところが嫌いだ、というだけの話なのかもしれない。
地獄のような状況に取り残された登場人物を見つめるとき、私は何を望んでいるのだろうと思う。『鬼滅の刃』。地獄を生きるしかなかった子供・炭治郎がヒーローになる物語であるし、ヒーローになるしかなかったことこそが悲劇で、彼をその運命に閉じ込めているのは、生来の優しさと愛情深さだ。ここまで優しくも愛情深くもなければ彼はもう少し穏やかな人生を歩めたのかもしれない。優しさや愛が本人を苦しめ、でもその先にしか彼が望むものがない世界。そこで生きる(しかない)彼の「勇気」は、人を鼓舞する。それを、むごいというのは短絡的すぎて、私はどうしても躊躇してしまう。この物語の中にいる人も、それから外にいる人も、炭治郎の優しさを「優しさだ」とすなおに受け止めることができる、それはとても美しくて繊細なことのように感じるから。炭治郎の優しさに、人は「見覚え」があるから、だから彼らは炭治郎の優しさにしずかに気づくことができるんじゃないか。
この物語は、とても非現実的な設定だけれど、人の感情、痛み、悲しみ、優しさは、とても等身大で、そしてそれらを描写する言葉は間接的で、読み手が共鳴してやっと、咀嚼できる描き方であるように思う。だから、私が炭治郎を優しいと思うとき、それは私がずいぶん昔にそんな同質の優しさを持っていて、そしてときには妥協によって、それらを手放してきたからこそなんじゃないかなぁって思った。物語の中にいる人々も、炭治郎の優しさを優しさだと気づいて受け止める時、「優しさ」はどこか彼らにとって既知のものとして描かれているように感じる。自分が既に知っているもの、もしくは諦めたもの、奪われたもの。それらを炭治郎の中に見出しているから、言葉にするより先に炭治郎に穏やかなものを感じている。そして、吾峠さんはそんな「手放してきた人」「過去に優しかった人」のことも、「今も優しい存在」として捉えて描いていると思えるから、好きだ。
優しくなりたかったけれど、炭治郎がその理想の姿かというとよくわからない。命懸けで優しさを貫くことが優しさの最良な形だと、私は思わない。そんなことをしないと優しくできない世界は異常だ。でも同時に、炭治郎は血を流したり痛みに耐えたりすることで優しさを証明するようなキャラクターではなかった、とも思う。彼の優しさは彼が命懸けで戦わなくても、すでに伝わってくるものだった。私は炭治郎がカナヲのためにコイントスをするシーンが好きだ。何度でも投げるつもりだったと言う炭治郎の優しさは、なんの犠牲もないまま、彼の心そのものをまるごとで表していると思う。彼が自らを犠牲にするところまで行ってしまったのは、世界がそうさせたからにすぎず、炭治郎の覚悟の強さや自己犠牲の精神が彼のやさしさの軸にあるとは思えない。私は炭治郎が平穏に生きて、やさしすぎて口うるさくてめんどくさい人だと周りに煩わしがられるような世界の方が好きだし、その時の炭治郎も人柄はなんにも変わらないだろうって思う。本来はきっと、「優しい人なんだけどね」なんて言われる人なのだろう。
こんな地獄のような世界になって、変わったのは、炭治郎ではなくて、むしろ炭治郎の周囲だろう。彼らは炭治郎の持つ優しさを知っているから、見覚えがあるから、だからそれを(こんな世界で)まだ持っている炭治郎に「幸せになってほしい」と願っている。
ずっと日常のなかで抱えてきたり手放したりしてきた小さな優しさを、炭治郎を通じて思い出す。このままだと自分がとてつもなく傷つくだろうと気づいて、耐えきれず手放してしまったような優しさを炭治郎は彷彿とさせるから、だから、幸せを願うのだ。彼はこんなに傷ついたから、とかではなく、見ていると、切なくて優しくて、このままじゃこの人は幸せになれないと思えてならない人だから。自分の優しさなら捨てられる、諦められる、でも他人の優しさは否定なんてしたくない。賢く生きろなんて言いたくない。優しさを奪われるのもまた悲しいことだと本当はよくわかっているのだ。だから、どうか幸せになってと、願ってしまう。
幸せになりたいと思いながら、人に優しくもしたいと願っていた私は、そんな自分を愚かだと思っていた。というより、今だって中途半端で覚悟もない、弱い人間だと思っている。けれど、深い海の底で、水面に浮いている船を見上げる感覚で、自分の炭治郎への気持ちをながめて、なんだか救われていく。不幸になってもいいと思いながら貫く優しさだけが本物だと思っていた。でも、優しい人は好きだ、優しい人には、私は幸せになってほしい。私の優しさのことを、私はやっぱりずっと好きでいたいなぁと思う。私は、炭治郎みたいにはなれない。でも炭治郎の向こうに優しくしたい私がいて、私はそんな私を本当は大好きだって思っている。どうか幸せになって。優しいままで幸せでいられる世界に、どうか、みんなたどり着いて。
・『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴・著)
https://kimetsu.com
今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。