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#今日の学び No.82「夫婦別姓制度について思うこと」

どうもです。Anbyです。先日、大学の英語の講義があったのですが、メインテーマは「結婚」でした。海外、特にアメリカでの結婚・夫婦事情についての文章でした。そして、度々出てきていますが私が所属していますZOPにて「ジェンダー」のトピックで注目されていました。これはもうネタにするしかない、ということで今回の内容に入りたいと思います。

というわけで、今回は「夫婦別姓制度」についての内容です。昨日の記事は下に貼っておきますので、興味のある方はお読みくださいませ!では、今日の内容に入りましょう!

1.夫婦は氏を統一すべき?

皆さんは「夫婦別姓制度」をご存知でしょうか?

知らなくとも、名称で大体は予想がつくかもしれませんね。正確には「選択的夫婦別氏制度」と称されるようです(法務省曰く)。法律である民法では、姓や名字のことを「氏」と呼んでいるそうなので、ここでも「氏」を採用したいと思います。

この「選択的夫婦別氏制度」ですが、これが最近提唱され始め、それに伴った運動も起こっているようです。それはなぜでしょうか?

その前にまず、現状を知ることが必要です。

現在の民法では、結婚に際して男性または女性のどちらかが氏を改めなければなりません。嫁入り、婿入りなどであれば自動的にどちらか一方に氏を改めることになりますが、一般的には相談してどちらかに決めることができます。とはいえ、大半は夫の氏に改める場合が多いようですね。

これのどこが問題なんだ?と思う方もいるかもしれません。氏を改めること自体は、自身の氏に誇りを感じていたり、伝統ある名家であれば氏は変更したくないでしょう。氏が改められること自体は、さほど問題ではないと思われます。氏なんてものは元々日本にはなかったものですから。大事なのは名です。

問題なのは、氏を改めるのに係る手続き、そして最も問題視されているのは俗に言う固定観念によるハラスメントです。

法務省のHPには以下のように書かれています。

現在の民法のもとでは,結婚に際して,男性又は女性のいずれか一方が,必ず氏を改めなければなりません。そして,現実には,男性の氏を選び,女性が氏を改める例が圧倒的多数です。ところが,女性の社会進出等に伴い,改氏による社会的な不便・不利益を指摘されてきたことなどを背景に,選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。

改氏による社会的な不便・不利益を指摘されてきた、とありますがここが注目すべきところなのでしょう。そして法務省の言うとおり、「女性が氏を改める例が圧倒的多数」とあるので、改氏による社会的な不便・不利益を指摘してきたのは大半は女性の方でしょう。

私自身は男性ですから、その指摘や意見について多いに共感できるわけではありません。奇しくも想像でしかないですが、実際のところ、「氏を変更したくない」と考える女性は多いのでしょうか?

法務省による調査では、「婚姻した以上、夫婦は同じ氏を名乗るべきであり、法律を改訂する必要はない」と回答した人は29.8%だったそうです。約3割の人は同一の氏を名乗るべきだと考えているようですね。逆に言うと7割の人は少なくとも「選択的夫婦別氏制度」に反対ではないようです。

実際問題、1度の婚姻ならまだしも、中には複数回婚姻を経験する方もいるでしょうから、その場合はコロコロと氏が変わるので、自分だけでなく、周囲の人にも混乱を与えかねません。逆にそれが足かせとなって結婚に踏み出せない、というケースもあるようです。

個人的には、同一の氏を名乗るべき、という固定観念的なものはあまり好きではないので、同一でも良いし、別姓として名乗って良いのを選べる、という制度は適切なものではないかとは思っています。

ですが悲しいことに、「〜はこうあるべき」という前時代的思考を引っ張る人がいるようなので、このような問題も発生しているのでしょうね。

2.常識という偏見と無関心

特に社会的に起きている問題について言えることなのですが、大体の問題は「常識という偏見」が根源になっているように感じます。加えて世代によって異なるように感じますね。具体的には今の社会人30〜50代くらいの人たちは先にも言いました「常識という偏見」、若い世代の10〜20代の人たちは「無関心」です。

前者については、代々受け継がれてきた世間一般での常識・見識が大いに関わっています。昔はこうだった、のような話をする人を見かけたことがあるかもしれませんが、それは最も分かりやすいパターンですね。

昔と現在を比較して現在を批判する人がいますが、昔と現在で違っていて当たり前です。むしろ違っていなければなりません。そうでなければ日本は世界の荒波に揉まれ滅んでしまっていたことでしょう。人間も歳を重ねて変化していきます。それと同じで世界も日本も社会も変化していきます。

ただその変化の速度は確実に速くなっています。テクノロジーの進化といえば喜ばしいのですが、逆にいえばそれにふるい落とされると進化についてゆけず、取り残され、孤独に生きることになるでしょう。現在でも、頑なにスマートフォンを持たず、ガラケーのみで生きていくのは限界に近いですし、実際ガラケーの発売も終了しましたので、故障しても直せません。

目に見えるモノは確実に進化し、それは私たちも実感しているところでしょうが、思想はどうでしょうか?

世界的に見ても変革、革命が起きる時は思想の変化の時です。人々の常識は変化してきました。だからこそ永久的な常識ではなく偏見あり、かの有名なアインシュタインの言葉にも「常識とは18歳までに身につけた偏見である」とあります。

常識と礼儀を履き違えている人を見かけたことがありますが、皆さんはどうでしょうか?日本は礼儀を重んじる文化です。それは日本独特のものでしょうし、その心は受け継いでいくべきものだとは思っています。ですがそれを相手に期待した途端、それは礼儀ではなくなります。ただの偏見です。

相手に対して失礼のないように、常識的な態度を取らなければならない、と思わなければならないのは本人であって、相手から強制されて思うことではありません。本人が先代への感謝の気持ちがあっての贈り物は、大変良いことでしょうし、何ら問題はありません。ですが、それが慣習だから、送らなければならないから、という理由で行うのは全くもって無意味です。だから文句が出るのでしょう。本人が気づいていないだけです。

とはいえ、それら「常識」は教えられなければ知ることはできません。教えるべき責務は誰に発生しているのでしょうか?それが「親」です。

もし、自分が当たり前のようにやっていることをできていないのであれば、それはその人の親が親としての責務を全うできていないということになるでしょう。

相手には期待しない方が結果的には良いのかもしれませんね。最近よくそう思います。それは無関心とはまた別のものです。期待はしませんが未来の可能性を信じることが大事なのかなと思います。

これは当然できるでしょう、こんなの当たり前じゃん、そのような期待を勝手にして、それが叶わないと裏切られた気分になって勝手に怒って勝手に喚き散らす、これほど哀れで滑稽なことはありません。

そう言う意味で恥ずかしくない大人になりたいです。と、つくづく思います。

参考サイト↓

長くなりました。最後までお読みいただきありがとうございました!明日はクリスマスですね。メリークリスマス!

ではまた!

第85号

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