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母を好きでいたかった
母が憧れだった。
強く逞しく情緒的でどこに行っても美しいと評される母を誇りに思っていた。私が幼い頃は専業主婦だったが、中学校に上がった頃に突然「バリキャリ」になり、生き生きとしていた。孫がいる今でも趣味のスポーツをストイックに続け、異業種に転職して1年で全社表彰を受けるような人。
私のキャリア観は母の影響がかなり大きい。
それを褒められて生きてきたし、私自身が肯定されると母が肯定されているような気持ちになって嬉しかった。
でも最近、ふと気づいてしまったのである。
「母」とは無条件に特別な存在で子供は無条件に親を愛してしまっている側面があるということに。
思い返せば嫌な想い出を忘れ去ってしまっている。
幼少期のときに椅子を投げつけられた、幼稚園生のときに話しかけすぎて無視された、母の仕事の邪魔になって怒鳴られ叩かれた、中高生のときに少しかわいい下着を買ったら食卓に置かれて懇々と汚いと言われ続けた、兄弟や父の陰口が常に聞こえた、学費を全額自分で支払った、祖父母には会わせてもらえなかった。
どれもこれも親を嫌いになる理由としてはそれなりに真っ当なものだとおもう。
それでも今は嫌いじゃない。
というか、母を嫌いな自分が嫌いで、母を正当化している。本当は弱い母を心のどこかで守らなきゃとも思っているのだ。だから、嫌いといえない。
今わたしは息子と夫と暮らしていて、実家は遠距離にある。兄弟と父母は同居しているがかなり冷戦していると聞き、すぐに母に要因があることを悟った。私がいないからバランスが乱れてることも。
母のことが大好きだったし、本当の気持ちで尊敬していた。けど、結婚して、子供ができて、私も変わって、やっと、母は子どものような人だとわかった。親になったからといって必ず大人になれるわけじゃないんだよね。
私はおかげさまで強く逞しいけど、子供のときから人の顔色が気になって、毎日毎日誰かに嫌われていることを妄想するような子供だった。
確実に病んでいた。
それでもそれほど拗れずに成長できたのは紛れもなく両親のおかげだが、自分の大切なもののためにも、もう正当化することを辞めると決めてこのノートを書いている。
親でも他人。自他との境界はある。
わたしは子供に自分の人生を重ねたり背負わせたりしたくないし、自分の幼稚な感情でコントロールしようとしたくない。
母のことを無条件に肯定していた自分は心にしまって、新しいかたちの母親像を自分の中に作っていくこと。それが向こう数年の大切な軸になっていく気がしている。
母なりの苦悩や葛藤もあっただろうし本当に心から感謝していることもたくさんある。けど、そのことと「自分と同じ嫌な記憶」を息子に味わわせるのは話が違う。そして、私が制御しないと夫も不幸にしてしまうかもしれない。
息子や夫が可能な限りキラキラした世界で生きていけるように私は努力したくなってしまった。
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