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復元の実とは何ぞや『祭儀研究委員会答申書」

教祖100年祭を翌年に控えた立教148年(昭和60年・1985年)、『みちのとも』11月号に「特集」【復元四十年 第一部】として、本部員、田邊教一氏による「神道とのかかわりの中で」と題された随想が掲載されました。

『みちのとも』立教148年(昭和60年・1985年)11月

その中で田邊氏は「復元とは、単に復旧ではなく、元を極め、根源をたすねる所に、復元の意義がある」という二代真柱の言葉を引用した上で、

この上から、復元は広い意味からは、人間創造の元一日の親神様の思召に復る歩みであり、狭い意味からは、本教の発展途上において、種々の事情から本筋をゆがめられてきた夾雑物を排除して、本筋を歩む努力をすることであると、私は考えている。この意味から、復元とは、四十年前のことではなく、現在なお、そして将来永く続けられていくべきことで、天理教の信仰者として、一人々々が常におろそかにしてはならないことである。
(中略)
その他、祭祀の仕方、すなわち、教会におけるお社をはじめ、御簾、〆縄、玉串など、神道形式を踏襲していることは、みなよく承知していることであって、時をみて、将来当然改められることと推察される。
すでに、榊とひもろぎが、本部をはじめ、全教会から姿を消している。また、本部では今回の上段改修を機として、真座の周囲の〆縄が除かれた。このような形は、時が来て、みんなが納得できるものがあれば、いつでも改められることである。形の上で神道色を無くすることも、復元の歩みと言えよう。

『みちのとも』立教148年(昭和60年・1985年)11月

と述べました。
「復元」の何たるかをとても分かりやすく教内に示した文章であると思います。
その後、今日までに一般教会においても〆縄(注連縄)が撤廃されましたが、お社・御簾などは今もなお使われています。

復元の一環として神道色を取り払おうとする提言はそれ以前からもありました。
前掲の田邊本部員の随想から遡ること35年。昭和25年8月26日に祭儀研究委員会から教務総長の諸井慶五郎氏と詰番の中山為信氏に宛てて、下記画像の『祭儀研究委員会答申書』が提出されています。教祖60年祭から4年後のことでした。
委員には当時の天理教団をリードし、その後も重要な役割を担われた方々が綺羅星の如方く名を連ねています。
この時、委員に任命された方々の年齢をみてみると、たとえば6年をかけて『おさしづ』の編纂に尽力した桝井孝四郎氏は56歳。また、後に名著『天理教教義学序説』や、多くの布教師が病さとしの手引き書とした『身上さとし』(私個人は『身上さとし』には否定的ですが)を物した深谷忠政氏が38歳。
天理教本部が、大任に耐え得る信仰と見識を持つと認めた方々が、世代横断的に任命されたのではないかと推測します。

『祭儀研究委員会答申書』①(①~④は筆者が便宜上つけた番号です)

祭儀研究委員会答申書
本委員会は昭和二十四年十一月二十七日各委員の初顔合わせをなし委員長副委員長の互選を行ひ御下命の祭儀事項に関する諸問題及びその研究の基本方針等を審議し爾来回を重ねて熱心なる意見の交換を行ひ中間の答申をさせて頂きましたが、その後、又詰番、教務部長の意見を承り更に検討を加へて漸く結論を得ましたので茲に答申書を提出致します

昭和二十五年八月二十六日

祭儀研究委員会
岩田長三郎 今西國三郎 橋本正治 富松義晴 田川虎雄 中台義夫 上原義彦 上田嘉成 宇野晴義 久保正徳 久保芳雄 桝井孝四郎 松村隆行 深谷忠政 紺谷金彦 寺門敏雄 酒井康比古 宮内浅之丞 副委員長 小野靖彦

教務総長 諸井慶五郎殿
詰  番  中山為信殿

『祭儀研究委員会答申書』より
『祭儀研究委員会答申書』②
『祭儀研究委員会答申書』③
『祭儀研究委員会答申書』④
『祭儀研究委員会答申書』裏表紙

答申書の内容は多岐にわたっていますが、今回は上掲画像の『祭儀研究委員会答申書』②の左ページから④の右ページに記載された「第四 祀り方について」という項目に触れたいと思います。以下にその部分を文字起こししました。

◎第四 祀り方について
(1)神殿はなるべくぢばの方向を拝するように建築すること
(2)お社は改めること(雛形提示)
(3)祖霊殿又は霊床では霊様を一所に祀ること
(4)鏡、注連縄、垂紙、榊(玉鏡剣)、五色の布、真菰は廃止する
(5)八足、圓座、神饌用具、燈明、ぼんぼりは存続する

第四項「祀り方について」の中(2)「お社は改めること」については至難であり重要問題なので委員会としては慎重に熟議を凝らして意見を交え、その根本的見解に関して一應委細に追申し委員の意のある点を更に御諒察賜わりたいと存じます

(一)本件を問題として採り上げた所以
教祖御存命当時の親神様の祀り方については明確ではないが、何でも最初の程は重箱様のものを重ね、その上に御幣を立ててそれを目標として拝されていたとも言われている(堀立小屋時代)、更に「つとめ場所」の建築後は、上段の右側の一間四方を神床として、其處にやはり御幣をお祀りされていたらしいが、明治十三、四年頃には一時地福寺の配下に所属して表面を佛式の祀り方にされたと傳えられて、なお明治十八年頃神道の所属として天理教会の設立を企図されるに至った前後から神床に御社を作り御鏡を置かれるようになったものと思われる
其の後、神道直轄天理教会本部の設置が許可されるや、旧神殿の増築(明治二十一年)に際しても、この祀り方を取られ、一般教会も亦それに倣って来たのであるが、本部にあっては昭和普請の際、教義の本義に基き、真柱様の御英断をもって、従来の祀り方を根本的に改新されたことは感銘に堪えないところであると共に、一方一般教会に於いてはなお従来の形式を踏襲して現在に及んでいるのは如何かと思われる
これ恐らく其の当時として、行政的には、なお神道の一派として取扱われていた関係もあり、又教義的にも強いて改新すべき明確なる理由もなく、且つ一万有余の一般教会の祀り方を変更することは実施上に於いて幾多考慮すべき問題があった故であると考える。
然るに現在にては、行政的には何等の拘束もないのみならず、今回新教典の発布されたこの機会に、祭儀面に於いても大いに本教の面目を復元すべき秋なるを痛感する、即ち一般教会の祀り方に就いても、克く教義の本義に照應して深甚なる考慮を致し、若し御社を改廃するとすれば、今こそ其の絶好の時旬ではなかろうかと思われる、この意味に於いて本問題は可成り至難な事項であるが、敢て審議の俎上にのせた次第である

(二)お社を改廃しようとする所以(第三、一般教会の祭儀の次第に就いての中「お扉は常に開扉しておく」)の理由
「つとめ場所」建築当初に於ける教祖の御言葉として伝えられている”社はいらん小そうてもつとめ場所を建てかけよ”との御主意より窺うに、教祖は社よりは神殿そのものを神のやかたとして、お希みになったのではなかろうか、若し然らば神殿の中に更に社を作ることは、屋上に屋を重ねるの憾なしとしない、況んやお社の中に御分霊を閉じこめて、祭典の時だけ開示すると言うのは、教祖の”扉ひらいて”との思召しに副う所以ではない
親神、教祖、ぢばの三理は一体であるとの根本信条よりすれば、親神の祀り方も教祖の場合と同じに取扱わさして頂いても毛頭差支えないのみならず、寧ろそれでこそ晝夜を分たず御守護下されている親神の理を、形の上に於いても明確にお示し頂く所以ではなかろうか


(三)希望
右の理由により本委員会としては、前示雛型の如き「床の間式の神床」を考案した次第である。但し一万有余の一般教会に於ける祀り方を今直ちに改新するは至難である故、従来のものは暫定的にその儘存置することゝし、今後は機会のある毎に逐次この方針を実施するように願わしい
第四項の「祀り方について」の中、(3)「祖霊殿又は霊床では霊様を一所に祀ること」については
(一)霊社を数種作るときは、生前同一家族(親子夫婦兄弟姉妹)であっても時には別々に祀られることになって、故人の霊を慰める所以ではないと思われる。況んや出直してからの霊の問題に関しては、教義の上からもなお根本的に再考の余地がある
従って霊床は一つにして若しその必要ありとすれば霊帖を数種作ることに致したい
(二)それに就いては、本部祖霊殿の祀り方を改めるようお願いしたい、霊祭に於ける祭式の場合等に左右霊社の取扱いが何だかピタリとしない感じを受ける

『祭儀研究委員会答申書』より抜粋

一読して、私は祭儀研究委員会のラディカルな意見にとても驚きました。特に
第四 祀り方について
(2)お社は改めること(雛形提示)
については、全国1万有余の教会での祀り方を一気に改めることの難しさに理解を示しつつ、「床の間式の神床」(形状など詳細は不明)を考案し、今後機を窺いつつ、正しい形に改定していくことを上申しています。
また「つとめ場所」ふしんにおける「社はいらん小そうてもつとめ場所を建てかけよ」との教祖のお言葉を引用し、神殿の中に更に社を作ることが、「屋上屋を架す」ことにならないだろうか?とも指摘しています。
さらには祭典日に限って社の扉を開くというのは、普段は御分霊を閉じこめているということであり、教祖の「扉ひらいて」との思召しに反していると、非常に正鵠を得た意見も記載されています。

あるいは
(3)祖霊殿又は霊床では霊様を一所に祀ること
についても、複数の霊社が存在すると、同じところに合祀されるべき家族(親子夫婦兄弟姉妹)の霊が、分散して祀られることの可能性を示唆し、加えて、お道における「霊(魂)」の考え方についても再考の余地があると問題提起もしています。
また同時に、一般教会に関する霊舎の問題のみならず、本部祖霊殿に三舎祀られていることへの違和感にも言及し、それを改めるように建言しています。

控えめに言って、感動的ともいえる答申書です。
もちろん、第四 祀り方について (2)お社は改めること(雛形提示)で触れられた地方教会における「お社」は神道の影響を深く受けたものですので、祈りの目標物として適切でないことは言を俟たないでしょう。
しかし現実的には教会のお社は、人によっては神様のお住まいと考えておられたでしょうし、何ぴとにとっても決して疎かにできぬ大切なものであったことに間違いありません。また何十年もの間、教会で最も尊ばれ、また何十万回と額づいてきた礼拝の目標物です。
それだけに「お社を改廃したら、一体何に向かって礼拝するのだ?」という、とてつもなく難解な問題が生じると思います。
この『祭儀研究委員会答申書』が提出された後、時を経て注連縄、垂紙、榊(玉鏡剣)、五色の布、真菰は廃止されました。
しかし肝心の「お社」は手つかずのままであり、その後議論の俎上にのぼったという話しも聞いたことがありません。
それは「お社」の持つ性格が、すでに廃止された注連縄、垂紙、榊(玉鏡剣)、五色の布、真菰とはまったく異なるものだからでしょうか。
教義的解釈は別として、真実の祈りを捧げる際に神様へと繋がる対象物であり、装飾や神具などと同等に論じること自体が不敬と考えられたのかも知れません。

また、全教的に納得する「お社」に代わる礼拝の目標を決めることが困難だったのではないかとも推測できます。
神殿の上段が狭い教会では改築などを要するやも知れず、信仰の本質に関わることとはいえ、ことはそう簡単ではないでしょう。

さて、お社に代わるものは何か?と考えた時、「かんろだい」を小型化した「レプリカ」を思い浮かべる方もいるのではないでしょうか。
「はあ?」というお怒りの声が聴こえてきますが、あくまでも「レプリカ(複製品)」であって、「かんろだい」ではないですよ。そこは重要。
それなら少なくとも神道色の濃いお社を拝するよりも、より天理教的であるような気もします。
でも、神聖にして犯すべからざる「かんろだい」の複製を造り、礼拝の目標とすることに全教的な賛同を得られるのか。また本部が認めるのかと考えた時、なかなか難しい気がします。はなから「検討に値せず」と言われるでしょうね。
天理教本部は包括関係を解消した幾つかの教会が、かんろだいを正確に写したものを囲んでかぐらづとめがつとめていることを「許し難い」と思っているはずです。知らんけど。
それらの団体に追従するかのような改革など、受け入れるはずがないと思われますね。

しかし『復元』とは何ぞや?
と考えるとき、教祖の本来の教えに立ち帰ることこそが主題であり、そのためには様々な人間的思惑を断ち切ることも必要なのではないかと思ったりもします。
もちろん、他に礼拝のめどとしてふさわしいものがあれば、何でもかまわないと思います。
断っておきますが、私自身は某分離団体のシンパではないし、「かんろだい」のレプリカへのこだわりもまったくありません。
私としては、おぢばのかんろだいを囲んで敷き詰められている「石」を各教会に配布し、それを礼拝のめどにする、というあたりが、当たり障りの無い(無いのか?w)落とし処のように思っています。

さて、「礼拝のめど」というセンシティブな問題はさておくとして、ぢばでつとめられる「かぐらづとめ」は、つとめ人衆が立った状態で円になってつとめられます。ならば一般教会でつとめるおつとめも、本部同様につとめられるべきではないか?と思うのですが、みなさん如何お考えでしょうか?
何故かというと「いちれつすまして」で両手を左右にサッと広げた瞬間を上空から見た場合、つとめ人間衆それぞれの広げた手が丸く繋がり、かんろだいを中心とした一つの円になるからです。それはとても感動的な瞬間です。上空から見たことないけどw

このようにあれこれと考えてきますと『祭儀研究委員会答申書』で上申された「お社の改廃」とは、教祖が教えられた「つとめ」を本来の形に復元することをも視野に入れていたのかも知れない。などと、また多方面からお叱りをうけそうな妄想が膨らみます。

いずれにしても、72年前に『祭儀研究委員会答申書』で委員たちが熟慮の末に訴えた
「即ち一般教会の祀り方に就いても、克く教義の本義に照應して深甚なる考慮を致し、若し御社を改廃するとすれば、今こそ其の絶好の時旬ではなかろうかと思われる、この意味に於いて本問題は可成り至難な事項であるが、敢て審議の俎上にのせた次第である 」
という答申を、次の年祭を前にした今、再考してもいいのではないでしょうか。そこには二代真柱が度々口にした「復元の実」が詰まっているように思えてなりません。

思えば、教祖のご生涯(今も存命だろ!というツッコミはご容赦ください)は、一面では

さあさあ月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、それぞれありて身の内あり、身の内ありて律あり、律ありても心定めが第一やで

明治二十年一月十三日

と叫び続けられた日々でもあったと言えるのではないでしょうか。

かつて私たちの先輩は明治20年(陰暦)1月26日に、神様から「人間の思いと神の思惑のいずれを選ぶのだ?」という究極の選択を迫られ、命を賭けて「心定めが第一」という正しき答えを選ばれました。
教祖のお言葉や正月二十六日における先人の心に思いをいたす時、「お社」などの問題も含め、「復元の実とは何ぞや」という超難解な問いに、答える旬がきているのではないかと思っております。
こい願わくば、それがすでに手遅れでありませんよう。
我々は今なお「復元」の途上にいるのですから。

ではまたいずれ。

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