人間思案でいいんじゃね?
とありました。ここでは人間思案について戒められています。
お道の信仰において「人間思案」は厳に戒めるべき心の動き。諸悪の根源。百害あって一利なし。って感じですかね。
「人間思案をするな」の一言で、成人の足りない未熟者を思考停止に追い込むことができます。
でも「人間思案」の反対って何でしょう?
「神様思案」かな。変な言葉だ(笑
まあ「神様のお考え」ってことですよね。
それじゃ「人間思案をするな、神様のお考えに立って考えなさい」って言うことになりますけど、そんなことが出来る人っているんでしょうか。
「人間思案をするな」って口にした以上、その人は神様のお考えを知ってるって前提でないと辻褄があいませんよね。
そりゃあ三原典も『天理教教典』も『稿本天理教教祖伝』もありますから、教理の勉強をした人は少しは神様のお考えを理解しているとは思いますよ。でもそれは「教え」を知ってるってだけで、神の思考を理解しているわけじゃないと思うんです。人間は神の視座ですべてを視ることはできませんもの。
神様は時間軸にすらとらわれない見抜き見通しの存在なんですから。でもそれって神様を人間の延長線上に捉えてないですか?
完璧な人間+全知全能みたいな。あくまでもベースは人間と同じ思考回路、みたいに勘違いをしてないでしょうか。
「それは人間思案だ」って思うこと自体が、もれなく「人間思案」ですよ。
私たちは長年にわたって「人間思案は悪」の呪縛から逃れられないできたと思うんです。
親の声には「ハイ」と素直に添うことが信仰の要。そう教えられ、疑問に思うようなことにも従順になろうと努力してきました。
結果、こんな事も起きています。
お道の中にはどこか合理的であったり効率的であることを忌避する空気がありますよね。あえて苦労をすることに意義があるという。でもそれは思考停止状態でもある。と言えるような気がします。
自分で考えることはとても大事だと思うんです。『生き残る信仰』でも書きましたが、自分で考えるところから本当の信仰は始まるんじゃないかと。
かんろだい倒壊。真柱の身上。それに伴いおさづけの理の拝戴ができなくなったこと。そして長引くコロナ禍。各種総会やこどもおぢばがえりも中止になりました。
これはひょっとすると神様が私たちに考える時間を与えようとしてくださっていることの現れなのではないでしょうか。
さて、先日『みちのとも』6月号に両統領のインタビューが掲載されました。
天理教の行政と内政のトップの教祖140年祭にかける熱い思いが述べられていましたが、そのポイントは
・何故教祖の年祭をつとめるのかという、年祭の意義をしっかり心に治める。
・自教会の現状を確認・把握する。教祖150年祭や立教200年という節目を目指して教会の将来の姿を思い描き、それを実現できるよう順序だてて進む。
・年祭活動への心構えを作る。厳しく通る覚悟を心定めする。
というものでした。
また、三年千日をどう通るかということについて、
・3年間教祖のひながたを通る。3年間を同じ力でつとめ続ける。
というものでした。
そして内統領は「ひながたを通る」ということについて
・教祖と同じ気持ちになり、分かってもらえるまで精いっぱい努めさせてもらうということ。
・教祖が現身をかくされてまでお望みになったことを実現できるように励ませてもらうということ。
と語りました。
正直なところ、百年祭以前の成功体験をもとに同じような方針を発表しているように感じました。
かんろだい倒壊。真柱の身上。おさづけの理のお渡しの中止。教会のお返し。そしてコロナ禍。過去の年祭と比べてあまりにも大きな事情を見せられる今、これを神様が「今まで通りの考え方でいいから、更に頑張りなさい」と仰っているのか「一度立ち止まって来し方をじっくり省みなさい」と受け取るかによって年祭へ向かう歩みの考え方は大きく変わると思うんです。
教祖の教えは不変です。でもせっかくお見せいただいた現在の状況にあって、ましてや教会の経済状態や生活様式が変化し、千数百カ所という教会がお返しとなり、あるいは後継者が教会から離れ、信者数も減り続ける中で「3年間、教祖のひながたを通る。3年間を同じ力でつとめ続ける」というハードな方針が現実性を持つのかと疑問に思ってしまいます。
やはり一度立ち止まって来し方を省みるべきではないでしょうか。両統領の談話を受けた直属教会長さんたちが旧弊にとらわれず、人間思案のそしりを怖れず、現実に即した活動方針を部内教会にむけて発信してくれるのを期待するばかりです。
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