数日前に届いた『みちのとも』立教185年9月号を読んでいると、「第260回定時集会」での一般質問の議事録に目がとまりました。
その中で「年祭に向かういま」というテーマで質問がおこなわれており、表統領がこれに答弁していたのですが、その内容に私はがっかりしてしまいました。
その理由について記述する前に、まずこれまでの表統領の発言をおさらいする意味で、過日『表統領の「これからの道の歩み」はコペルニクス的転回を実現するか』 でも書きました『みちのとも』2022年9月号に掲載された表統領による「これからの道のあゆみ」を引用します。
とても良い内容だったと思います。特に太字部分の画期的とも言える発言は天理教人に少なからず希望を抱かせたのではないでしょうか。
しかし、その小さなときめきは時と共に落胆に変わっていきました。
彼等、彼女等をがっかりさせたであろう発言の最たるものが、約2年後に『みちのとも』に掲載された次のインタビュー記事でした。
思わず「はあ?」と言いたくなるような、ちょっと何を言ってるのか分からない発言でした。
教会のあれこれを自己採点するという奇をてらったアイディアが、無批判に下々に受け入れられると思ったのかも知れませんが、我々はそれほど馬鹿ではありません。共通認識を持って生まれ変わる決意をした上で為すべきことが、まさかこんな小手先の手法などでは無いということくらい、我々はとうに分かっています。こんなことで教会が良くなくるなら苦労はしません。
今では「もうこのままではいけない」と言う危機感を誰もが感じているのではないだろうか。
お道はこの変化した社会に対応できるように、共通認識を持って生まれ変わる決意をしなければならないだろう。
と、かつて熱く語った切迫感や生まれ変わる決意など、もはや見る影もありませんでした。
教会が変化した社会に対応できるように生まれ変わるには、まず
無理なお供えの問題。
内容の伴わぬ動員の問題。
老いた会長が生活保護を受ける貧困教会の問題。
教会を離れる後継者の問題。
宗教二世問題。
ジェンダー平等の問題。
そして、真の教えに帰る、正しき復元の努力。等々
これらの問題に教団が真摯に目を向け、改善を先導すること無くして「生まれ変わる」など、画餅に帰すだけでしょう。それは多くの心ある天理教人の間ではすでに共通認識されていると考えられます。
表統領は「共通認識」という言葉を好んで使いますが、とうの昔からこうした共通認識を持つ我々を置き去りにして、どこへ向かうというのでしょう。
そして数日前に届いた『みちのとも』立教185年9月号の、第260回定時集会での一般質問の議事録です。
その中で「年祭に向かういま」というテーマで質疑がおこなわれており、そこでの表統領の答弁を引用します。
教団トップの発言としては、うわべだけを捉えたような軽さを感じてしまい、何とも切ないものがあります。敷居を低くするのは「お道に引き入れる」ための手法に過ぎません。そんなことは地方教会なら当たり前のように意識している基本中の基本ですよ。教会が地域との繋がりに神経を尖らせる現状を理解しているとは到底思えない発言です。
ここでも「各教会がもっと世の中で輝く必要があることを全教の共通認識にしなくてはならないと思う」と「共通認識」という言葉が用いられていますね。ひょっとすると「共通認識」は表統領のマイブームなのかも知れません。一時の「オール天理」のように。
それにしても表統領の言う全教の共通認識とは一体何を指すのでしょうね。私には迷走しているように見えて仕方ないのですが・・・
伝統を踏襲するだけの活動が通用しなくなったので、それを切り替えることなのでしょうか。変化した社会に対応することなのでしょうか。
だとすれば、私たちはそんなことはとうに認識しています。今までそれを見て見ぬふりしてきたのは本部ではありませんか。
今、表統領に求められることは言葉を弄するのではなく、
無理なお供えの問題。
内容の伴わぬ動員の問題。
老いた会長が生活保護を受ける貧困教会の問題。
教会を離れる後継者の問題。
宗教二世問題。
ジェンダー平等の問題。
そして、真の教えに帰る、正しき復元の努力。
これらの「今そこにある危機」に目を向け、お道が存続していく為に変えていかなければならない喫緊の課題としての認識を持ち、腰を据えた改革を提示することではないでしょうか。
10年ごとの改革と真の復元。年祭の意義はここにこそあります。
ではまたいずれ。