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箸休め5-全教の共通認識とは-

数日前に届いた『みちのとも』立教185年9月号を読んでいると、「第260回定時集会」での一般質問の議事録に目がとまりました。
その中で「年祭に向かういま」というテーマで質問がおこなわれており、表統領がこれに答弁していたのですが、その内容に私はがっかりしてしまいました。
その理由について記述する前に、まずこれまでの表統領の発言をおさらいする意味で、過日『表統領の「これからの道の歩み」はコペルニクス的転回を実現するか』 でも書きました『みちのとも』2022年9月号に掲載された表統領による「これからの道のあゆみ」を引用します。

教祖100年祭後、バブル経済が崩壊し、少子高齢化時代へ突入した。更に核家族化が加速し未婚や離婚の増加によって家族観も大きく変化した。またIT技術が飛躍的に進み、人々の考え方にも大きな変化が起きている。
こうした社会の変化に呼応するかのように教勢は下降線を描き始めた。
少子高齢化、核家族化、未婚や離婚の増加、家族観の変化は縦の伝道の旧来からのあり方に大きく影響したが、そうした変化を感じながらも、我々はこれまでの形で布教活動や丹精を進めてきた。
しかし宗教に対する世間の価値観が変化する中、伝統を踏襲するだけの活動が通用しなくなるのはむしろ当然のことであった。
とはいえ長年やってきたことを切り替えるにはその必要性を共通認識とすることと、思い切った勇気と莫大な手間と根気が必要であった。
今では「もうこのままではいけない」と言う危機感を誰もが感じているのではないだろうか。
お道はこの変化した社会に対応できるように、共通認識を持って生まれ変わる決意をしなければならないだろう。
将来道を歩んでくれる後輩たちが胸を張って、この道を堂々と歩めるよう、今しっかりと道を踏み固めねばならない。

『みちのとも』2020年9月号「これからの道の歩み」

とても良い内容だったと思います。特に太字部分の画期的とも言える発言は天理教人に少なからず希望を抱かせたのではないでしょうか。
しかし、その小さなときめきは時と共に落胆に変わっていきました。
彼等、彼女等をがっかりさせたであろう発言の最たるものが、約2年後に『みちのとも』に掲載された次のインタビュー記事でした。

表統領
理想の教会の姿は、私たちのいまの段階では分からないかもしれませんが、それはあるはずです。
なぜならば、親神様・教祖には、意中の教会の姿というものが必ずあるからです。
仮に、その理想の姿があって、それが100点だとしたときに、「では、いまのあなたの教会は何点?」と尋ねられて「98点」と答える人は、たぶんいないと思います。皆もっと遠慮して答えて、たとえば「いまは20点です」と答えた教会が、いきなりこれから100点を目指すというのは無理というものです。ならば、20点から30点、35点へと目指していくほうがいいと思います。でも、30点になろうと患ったら、いっぺんに30点になるのは無理で、まずは21点にならないといけない。
けれども油断していると、19点や15点に下がってしまうこともあるわけですから、いまはお互い教会長として、せめて30点を思い描いてみて、それはどんな姿なのかを考えていただきたいと思うのです。

司 会
たとえば、おさづけを皆が取り次ぐ教会になろう。
これがプラス5点とか、そういうことでしょうか。

表統領
そうですね。採点基準は自分で決めればいいと思います。皆、漠然と100点を目指しているのではないでしょうか。
100点の姿がちゃんと描けていないのに、なんとなく言われるがままに100点を目指している。何が100点なのか分からないのに、これをやったら100点になるだろうと、なんとなくやっている。これは結果的に、自分から100点を目指しているとは言えなくなる。言われて、そういうものだと思い込んでいる。そんな意識なのに、いつの間にか分からない完璧を目指している。だから、しんどくなってしまうのだと思います。
もっと勇めるような材料を考えてみたらどうかと思います。私たちは、まだまだそんな段階だと思うのです。

『みちのとも』2022年6月号 両統領インタビューより
ちょっと何いってんだか分んない

思わず「はあ?」と言いたくなるような、ちょっと何を言ってるのか分からない発言でした。
教会のあれこれを自己採点するという奇をてらったアイディアが、無批判に下々に受け入れられると思ったのかも知れませんが、我々はそれほど馬鹿ではありません。共通認識を持って生まれ変わる決意をした上で為すべきことが、まさかこんな小手先の手法などでは無いということくらい、我々はとうに分かっています。こんなことで教会が良くなくるなら苦労はしません。

今では「もうこのままではいけない」と言う危機感を誰もが感じているのではないだろうか。
お道はこの変化した社会に対応できるように、共通認識を持って生まれ変わる決意をしなければならないだろう。

と、かつて熱く語った切迫感や生まれ変わる決意など、もはや見る影もありませんでした。
教会が変化した社会に対応できるように生まれ変わるには、まず
無理なお供えの問題。
内容の伴わぬ動員の問題。
老いた会長が生活保護を受ける貧困教会の問題。
教会を離れる後継者の問題。
宗教二世問題。
ジェンダー平等の問題。
そして、真の教えに帰る、正しき復元の努力。等々
これらの問題に教団が真摯に目を向け、改善を先導すること無くして「生まれ変わる」など、画餅に帰すだけでしょう。それは多くの心ある天理教人の間ではすでに共通認識されていると考えられます。
表統領は「共通認識」という言葉を好んで使いますが、とうの昔からこうした共通認識を持つ我々を置き去りにして、どこへ向かうというのでしょう。

そして数日前に届いた『みちのとも』立教185年9月号の、第260回定時集会での一般質問の議事録です。

集会

その中で「年祭に向かういま」というテーマで質疑がおこなわれており、そこでの表統領の答弁を引用します。

鈴木集会員
「みちのとも」6月号の両統領インタビューで、目指すとあった「敷居の低い教会」とは、どのようなものか。
中田表統領
教祖140年祭は、お道の現況に鑑みて、非常に大事な旬になると思う。危機感を持たねばならないと思う一方で、旬を仕切った活動をしっかりつとめることで、どんな勇みを見せていただけるだろうというワクワク感も大きい。
140年祭は、全力でつとめる旬であると同時に、将米に向かう一里塚と捉えたときに、各教会がもっと世の中で輝く必要があることを全教の共通認識にしなくてはならないと思う。その地の唯一無二の天理教の教会であることを自覚して、「地域の教会」と認識してもらえるようになることを目指したい。そういう意味で、出入りしやすい「敷居の低い教会」と言った。
外に対してどんどん働きかけるとともに、外からも中がよく見えて、不安を持たずに入れる教会だ。
日本では宗教にマイナスイメージを持つ人が多いという現実を直視して、「うちの教会は心配いりませんよ」と働きかけていく必要がある。それには、普段から出入りするよふぼくの笑顔や態度などが大切で、時間はかかるが、そこを目指していく必要がある。 
また、もし「布教」「にをいがけ」といった言葉に堅苦しいイメージがあるならば、言葉にこだわらず、形は柔軟に考えることが大切だ。その意味で、若い人たちの意見も積極的に入れていく必要がある。
にをいがけ・おたすけに必要なのは、困っている状態、悩んでいる状態に手を差し伸べる勇気であって、どんな手だてが有効かは、その後の話だろう。自分が周りの人を引っ張っていくという気概を持つ人が一人でも増えていくとありがたい。 

『みちのとも』2022年9月号より『みちのとも』9月号 第260回定時集会での一般質問より抜粋

教団トップの発言としては、うわべだけを捉えたような軽さを感じてしまい、何とも切ないものがあります。敷居を低くするのは「お道に引き入れる」ための手法に過ぎません。そんなことは地方教会なら当たり前のように意識している基本中の基本ですよ。教会が地域との繋がりに神経を尖らせる現状を理解しているとは到底思えない発言です。
ここでも「各教会がもっと世の中で輝く必要があることを全教の共通認識にしなくてはならないと思う」と「共通認識」という言葉が用いられていますね。ひょっとすると「共通認識」は表統領のマイブームなのかも知れません。一時の「オール天理」のように。

それにしても表統領の言う全教の共通認識とは一体何を指すのでしょうね。私には迷走しているように見えて仕方ないのですが・・・
伝統を踏襲するだけの活動が通用しなくなったので、それを切り替えることなのでしょうか。変化した社会に対応することなのでしょうか。
だとすれば、私たちはそんなことはとうに認識しています。今までそれを見て見ぬふりしてきたのは本部ではありませんか。
今、表統領に求められることは言葉を弄するのではなく、
無理なお供えの問題。
内容の伴わぬ動員の問題。
老いた会長が生活保護を受ける貧困教会の問題。
教会を離れる後継者の問題。
宗教二世問題。
ジェンダー平等の問題。
そして、真の教えに帰る、正しき復元の努力。
これらの「今そこにある危機」に目を向け、お道が存続していく為に変えていかなければならない喫緊の課題としての認識を持ち、腰を据えた改革を提示することではないでしょうか。
10年ごとの改革と真の復元。年祭の意義はここにこそあります。
ではまたいずれ。



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