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天理教における運動会問題についての一考察

しばらく書いてないと、なんとなく落ち着かないので、最近気になったことをライトな感じで書いてみますね。

ツイッターとかでも見かけるけど、天理教信者さんで、「子供の運動会が所属教会の月次祭とかぶってしまって、どちらを優先するか悩む」って人が結構多いよね。
運動会に限らず、子供の野球やサッカーなどの試合とか、習い事の発表会とかでも同様に悩む。
これって真面目に信仰してはるからこその葛藤やんね。「神さんごとを疎かにしてはいけない」って心理が働くってのは真面目な証拠ですよ。
この葛藤について、心理学者のクルト.レヴィンがゆーてた、
「ケーキ屋さんに並んでる色んなケーキが、どれも美味しそうで選べない。」
みたいな「接近型葛藤」ていうタイプに似てるって分析した人もいるけど、実は全然違うで。

親は子供の運動会を選びたいねん。自分でも分かってんねん。
でも真面目に信仰してはるから、月次祭に行かんことが心苦しいねん。神さんや会長さんに申し訳ないと思ったり、中には「もしかしたら、何か良くないことが起きるかもしれない」みたいな怖れを抱いたりして。
そやから「接近型葛藤」とは違うねん。でもこの「天理教信者が抱く運動会等の問題についての二者択一の葛藤」(やっぱり大層やなw)には、意外と「接近型葛藤」に有効な「人生に正解があると思わない方が楽に生きられるぞ」ていう、身も蓋もないアドバイスが有効かも知れんぞ、と僕は思てる。

僕は小学校の運動会を親が観に来てくれたことは一度もないねん。
その経験について、20年前に僕が書いた文章を読んでください。
さすがに小っ恥ずかしいけど。

「運動会」
今日は我が子が通う小学校の運動会だった。
田舎の漁師町のことゆえ早朝から親類縁者総出で場所取りがおこなわれ、昔ながらのゴザやシートに陣取った一族郎党が、それぞれに我が血統の代表たる小学生に盛んに檄を飛ばしていた。
僕は声援を受け走る子供たちを目で追いながら、30年前のあの日を想い出していた。

その年の運動会も、僕を応援する人の声が聞こえてくることはなかった。
昼食の時間になった。座るべきゴザのない僕は教室で弁当を食べた。そこには僕の他に3人のクラスメイトがいたが、集まるわけでもなく、皆がバラバラに自分の席で食べた。
そこにいる誰もが寂しさと侘びしさを感じているのに、それを互いに悟らせまいとする意味の無い頑なさで満ちていた。
昼食が終わり午後の部が始まった。いよいよプログラムも大詰めだ。
運動会の締めくくりは、クラス対抗リレー。僕はアンカーだった。
4位でバトンを受け取った僕は、自分に送られたものではない声援の中、風を切って走った。
絶対に負けたくなかった。僕は歯を食いしばって走った。いつもよりずっと早く走れたのを今でも覚えている。
3人を抜き去り、僕は一着でゴールを駆け抜けた。
リレーメンバー全員に賞品のノートと鉛筆が配られたが、少しも嬉しくはなかった。

運動会が終わると家族と一緒に帰る友達と離れ、一人で家路についた。
米末こめすえ」という看板が掛かったお米屋さんの角を曲がると一人の老人が僕を待っていた。
隣のご隠居だった。酒飲みで、博打打ちで、女好き。子供の僕でも、老人が近所でそんな陰口を言われているのは知っていた。酒で商売をしくじったその老人を良く言う者は、町内には一人もいなかった。
でも、何故か僕にはいつも優しかった。
老人は無言で森永のキャラメルの箱を差し出した。
驚いた僕が黙っていると老人は言った。
「坊、よう走ったなぁ。ものごっつ速かったのぉ」
老人の顔はいつものように怖かったが、目は笑っていた。
私の手にキャラメルを握らせ、頭を軽くたたくと老人は去っていった。
見てたんや…
嬉しかった。
キャラメルを一粒口に入れると鼻の奥がツンとなった。
キャラメルの甘さが、心の奥に閉じ込めていた寂しさを優しく包んでくれた。

あれから30年が過ぎた。あのご隠居はもういない。
僕を呼ぶ声に記憶の淵から引き戻されると、目の前で子供たちが弁当を広げていた。ご馳走に子どもたちが歓声を上げている。
ふと、この運動場のどこかで、あのご隠居が僕たちを見ているような気がした。
「坊、よかったなあ。」と言ったあの日と同じ優しい目で。  (了)

Beのいにしえのブログより

とまあ、こんなことをブログで書いて喜んどりましたんや。(ハズっ)
なんでこんなセンチメンタルで自意識過剰で埃をかぶった文章を恥ずかしげもなく引っ張り出したかというと、いささかの躊躇ためらいもなく月次祭参拝を選択出来る方はそれでエエと思うんやけど、理と情のはざま懊悩おうのうする方は、ズバリ「月次祭は休んで、運動会に行ったったらエエねん!」てことを言いたかったから。
神さんには「ホンマにごめんなさい。今月は子供の運動会にいかせていただきます」ゆーてお詫びしたらええねん。

ええか。よー聴いてな。子供が子供らしくいられる時間なんて、あっという間に過ぎ去るよ。子供とのかけがえのない時間を、たとえ一分一秒たりとも逃したらあかん。
幼少期の体験の反動から、子供との時間を大切にしてきたという自負がある僕やけど、子供の運動会を観に行けなかったことがある。
夜、一人でお酒を飲んでいる時に、突然その記憶が蘇ることがあるねん。そして、行ってやれなかった運動会の写真のアルバムを見てはシクシク泣くねんよ。
月次祭も大事やで。でも毎月あるがな。月次祭も神さんも会長さんも逃げていかへん。あなたが「嫌や!」ゆーても、どこまでも着いてくるがな。
でも子供と過ごす時間は確実に減っていくよ。二度と戻らん宝石のようなひとときが。

考えてもみなはれ、子供がすくすくと成長し、運動会で走り回ってる姿なんて、親神様から頂戴する十全の御守護を思いっきり体現した姿そのものやんか。それを観て「ああ・・・嬉しいなあ。有り難いなあ」て喜べる瞬間を、せっかく神さんからお与えいただいているのに、それを観ぃひんてメチャ勿体もったいないやん。
親神さんは運動会を選んだかて怒らはるような、こまい神さん違うで。
ガタガタ抜かす会長はシバイたれ。あ。シバイたらアカンな。
とにかく、迷ったら運動会でよろし。
その選択も、きっと神さんは喜ばはるよ。

以上で「天理教における運動会問題についての一考察」を終えます。(そやから大層や!ちゅーの)

よって件のごとし Hasta luego.

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