天理教における運動会問題についての一考察
しばらく書いてないと、なんとなく落ち着かないので、最近気になったことをライトな感じで書いてみますね。
ツイッターとかでも見かけるけど、天理教信者さんで、「子供の運動会が所属教会の月次祭とかぶってしまって、どちらを優先するか悩む」って人が結構多いよね。
運動会に限らず、子供の野球やサッカーなどの試合とか、習い事の発表会とかでも同様に悩む。
これって真面目に信仰してはるからこその葛藤やんね。「神さんごとを疎かにしてはいけない」って心理が働くってのは真面目な証拠ですよ。
この葛藤について、心理学者のクルト.レヴィンがゆーてた、
「ケーキ屋さんに並んでる色んなケーキが、どれも美味しそうで選べない。」
みたいな「接近型葛藤」ていうタイプに似てるって分析した人もいるけど、実は全然違うで。
親は子供の運動会を選びたいねん。自分でも分かってんねん。
でも真面目に信仰してはるから、月次祭に行かんことが心苦しいねん。神さんや会長さんに申し訳ないと思ったり、中には「もしかしたら、何か良くないことが起きるかもしれない」みたいな怖れを抱いたりして。
そやから「接近型葛藤」とは違うねん。でもこの「天理教信者が抱く運動会等の問題についての二者択一の葛藤」(やっぱり大層やなw)には、意外と「接近型葛藤」に有効な「人生に正解があると思わない方が楽に生きられるぞ」ていう、身も蓋もないアドバイスが有効かも知れんぞ、と僕は思てる。
僕は小学校の運動会を親が観に来てくれたことは一度もないねん。
その経験について、20年前に僕が書いた文章を読んでください。
さすがに小っ恥ずかしいけど。
とまあ、こんなことをブログで書いて喜んどりましたんや。(ハズっ)
なんでこんなセンチメンタルで自意識過剰で埃をかぶった文章を恥ずかしげもなく引っ張り出したかというと、いささかの躊躇いもなく月次祭参拝を選択出来る方はそれでエエと思うんやけど、理と情の間に懊悩する方は、ズバリ「月次祭は休んで、運動会に行ったったらエエねん!」てことを言いたかったから。
神さんには「ホンマにごめんなさい。今月は子供の運動会にいかせていただきます」ゆーてお詫びしたらええねん。
ええか。よー聴いてな。子供が子供らしくいられる時間なんて、あっという間に過ぎ去るよ。子供とのかけがえのない時間を、たとえ一分一秒たりとも逃したらあかん。
幼少期の体験の反動から、子供との時間を大切にしてきたという自負がある僕やけど、子供の運動会を観に行けなかったことがある。
夜、一人でお酒を飲んでいる時に、突然その記憶が蘇ることがあるねん。そして、行ってやれなかった運動会の写真のアルバムを見てはシクシク泣くねんよ。
月次祭も大事やで。でも毎月あるがな。月次祭も神さんも会長さんも逃げていかへん。あなたが「嫌や!」ゆーても、どこまでも着いてくるがな。
でも子供と過ごす時間は確実に減っていくよ。二度と戻らん宝石のようなひとときが。
考えてもみなはれ、子供がすくすくと成長し、運動会で走り回ってる姿なんて、親神様から頂戴する十全の御守護を思いっきり体現した姿そのものやんか。それを観て「ああ・・・嬉しいなあ。有り難いなあ」て喜べる瞬間を、せっかく神さんからお与えいただいているのに、それを観ぃひんてメチャ勿体ないやん。
親神さんは運動会を選んだかて怒らはるような、こまい神さん違うで。
ガタガタ抜かす会長はシバイたれ。あ。シバイたらアカンな。
とにかく、迷ったら運動会でよろし。
その選択も、きっと神さんは喜ばはるよ。
以上で「天理教における運動会問題についての一考察」を終えます。(そやから大層や!ちゅーの)
よって件のごとし Hasta luego.
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