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おさづけと祈り

今回は短い記事をリリースします。久々にお道の話です。

さて、世の中にはどれほど願っても、おさづけの理を拝戴することができない方々がいます。
仮にケースAとしましょうかね。それはこんなケースです。
●天理教を信仰していない人。
●教会に所属していない人。
●9度の別席を運んで(聞いて)いない人。
まあ、当たり前っちゃ当たり前です。なにせ現在はおさづけ拝戴の必須条件である別席が、厳密に制度化されているのですから。

じゃあ、こんなケースはどうでしょう?
ケースBです。
●腕または手に障害があり、両のてのひらで水をすくう形を作れない人。※残っている指や残存関節など、厳密な規定があるそうです。
●先天的または後天的に片腕もしくは両腕、あるいは手や指が欠損している人。
他にもあるのかも知れないけど、この2つのケースでおさづけを戴けなかった方々を僕は知っています。それも真摯で熱心な信仰を続けてこられた方たちです。
なんだか切ないですよね。教祖がご在世ならどうご判断されたのでしょうか。きっとその方の心根を見定めて、おさづけをお渡しくださることもあったと想像しちゃうのですよ。
だからそうした現実を目の当たりにすると、「何故だ?」という疑問を抱いてしまうのです。
そして、その疑問に懊悩おうのうするたびに、かつて『運命にあらがう』で取り上げた桝井伊三郎少年のお話が脳裏をよぎるのです。

桝井伊三郎の母キクが病気になり、次第に重く、危篤の容態になって来たので、伊三郎は夜の明けるのを待ちかねて、伊豆七条村を出発し、五十町の道のりを歩いてお屋敷へ帰り、教祖おやさまにお目通りさせて頂いて、「母親の身上の患いを、どうかお救け下さいませ。」と、お願いすると、教祖は、
「伊三郎さん、せっかくやけれども、身上救からんで。」と、仰せになった。
これを承って、他ならぬ教祖の仰せであるから、伊三郎は、「さようでございますか。」と言って、そのまま御前を引き下がって、家へかえって来た。が、家へ着いて、目の前に、病気で苦しんでいる母親の姿をみていると、心が変わって来て、「ああ、どうでも救けてもらいたいなあ。」という気持で一杯になって来た。
それで、再びお屋敷へ帰って、「どうかお願いです。ならん中を救けて頂きとうございます。」と願うと、教祖は、重ねて、
「伊三郎さん、気の毒やけれども、救からん。」
と、仰せになった。教祖に、こう仰せ頂くと、伊三郎は、「ああやむをえない。」と、その時は得心した。が、家にもどって、苦しみ悩んでいる母親の姿を見た時、子供としてジッとしていられなくなった。
又、トボトボと五十町の道のりを歩いて、お屋敷へ着いた時には、もう、夜になっていた。教祖はもうお寝みになった、と聞いたのに、更にお願いした。「ならん中でございましょうが、何んとか、お救け頂きとうございます。」と。すると、教祖は、
「救からんものを、なんでもと言うて、子供が、親のために運ぶ心、これ真実やがな。真実なら神が受け取る。」
と、」仰せ下された。
この有難いお言葉を頂戴して、キクは、救からん命を救けて頂き、八十八才まで長命させて頂いた。

子供が親のために『天理教教祖伝逸話篇』 16

多くの逸話の中でひときわ異彩を放つこのお話が僕は大好きなんです。
当時「神」もしくは極めて「神」に近いお方と認識されていたであろう教祖が、二度までも「救からん」と仰っています。これはもはや神様からの余命宣告ですよ。それは医者の言葉よりも重かったと思うのです。
でも伊三郎少年は諦めなかった。
片道約5.5Kmの道のりを徒歩で2往復半、計27.5Kmを歩き通し、教祖に「そこを何とか!」と押して三度願ったのです。
その真実の心を教祖はよみされて、奇跡をお見せくださいました。
僕はこの逸話が内包する「奇跡のカタチ」のようなものに、深い感動を覚えました。

おさづけを取り次いでいなくても、心の誠を神様が受け取ってくださり、身上をご守護くださることが証明されたのですから。もちろん、レアなケースかも知れませんが、教祖がうつを隠されて以降、そうしたご守護のカタチが一度もなかったとは、決して言い切れないと思うのです。
実際に僕の親しい友人はおさづけを戴いていなかったけれど、命が尽きてもおかしくない病に冒された弟のために必死に祈り、奇跡的なご守護をいただいています。
「そんなのは偶然だ!」と仰る方もいるでしょうが、そうした現象を偶然と断定することは、逆に神様の不思議なお働きを否定することになりかねない気もしますけどね。

結論的に言うと、ケースBの理由でおさづけを戴けなかった方も、いや、もっと言えばケースAの方だって、誠心をもって真剣に病に苦しむ方のたすかりを祈れば、おさづけ同様のご守護をいただけると僕は信じております。
だから、何らかの理由でおさづけを戴けなかった方も、どうか肩を落とさず、自信を持って身上の方に向き合ってください。
なんたって僕たちには最強のツール、「おつとめ」があるじゃないですか。

あ。僕がおさづけの理を軽んじていないことだけはご理解くださいね。

親神様も教祖も、天理教を信仰している我々や、天理教団のためだけに存在しているわけじゃありません。だって全人類の親なのですから。

蛇足ながら「道の路銀」って言葉は、決しておさづけだけを指すわけじゃありませんからね。でも今回はそこには触れません。またいずれ書きます。

※指の欠損があっても、真柱によってその方の心根を見定められ、おさづけを拝戴された方もいらっしゃることを最後に付記しておきます。

(しまい)

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『続 おさづけと祈り』(おさづけその2)
『結 おさづけと祈り』(おさづけその3)

writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI

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