勉強自体に意味がないことをもっと伝えたい

勉強をしても将来「他者の」役に立つかはわからんという話。アウトプットが大事。

何故勉強をするのかという疑問を持つ人は、勉強自体が役に立たないことを良く見抜いていると思う。一定数いてこいつら「ヤバイ」とおもうのが、そこそこの成績を収めることで、自分は義務を果たしているから良し、自分は価値が認められているぞ、と思う人たちである。

自分はそういう側であった。勉強自体そこそこ楽しいし、特に地獄の苦しみを受験で味わうこともなかった。大学に入ってからもそうで、70点とか80点を平均的にとって進学していた。

しかし実際に世の中にでて勉強が役に立つとき、どう役に立つか、というと、「設計計算をするときに材料強度計算ができる」、「コスト試算をするときに、工場の稼働時間とか材料費からいくらかかるかが検討できる」、「量産したときの学習曲線から将来のコストを計算できる」などなど、使った結果なのである。

「勉強ができる」という事実が評価されることはなく、あくまで「勉強の知識を使った成果」が評価されるのだ。

結構この二つは違くて、実は大学までの教育では「勉強ができる」度合を評価していると思う。言い換えると、テストが5問あるうちの3問が取れればよいという評価である。これは5問中3問までの知識を身に着けましたね、ということを評価していて、その知識で何ができますね、という評価をしているわけではない。もっと言えば評価を他人(教員や問題集の答え)にゆだねている時点で、「アウトプットできている」とは言えない。なぜなら、「結果に自信がなくても」あっていれば点数がつくのだから。

成果について評価されるのは課題研究や卒業論文くらいだ。東大・京大に入るのにすら「アウトプットする」能力は試されない。

卒業論文は「成果を出す」能力が試されるので、「勉強ができる」だけの子らははじかれる。逆に「勉強はできない」けども「頑張って勇気を振り絞り、自信をもって成果らしきものを出す」能力が高い人は伸びる。勿論いい大学なら両方そろっている場合ががあるが、偏差値と研究能力が関係ないのはこのせいである。

結局勉強が役に立つのは「自信をもって結果を出せて、役に立つ成果物とできる」能力も兼ね備えたときなのである。そのことがわからず勉強が中途半端にできることにあぐらをかく奴らにもう少し自覚を持ってほしい。

以上、自信がなくて勉強が中途半端にできた側にいた人間の意見。言い方は変えてもう少し洗練して行きたい考えである。

ちなみにゲームや趣味は勉強に似ていて、外に自信をもって出す必要がなく、自分の中でとじられるので楽しい。

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