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失敗

「失敗は成功のもと」
「仕事をしていれば必ず失敗はある」

 きっとそうだろう。私にもし部下や後輩がいて、失敗した時は全力でそのような声をかけるだろう。だが、私の失敗によって被害に遭った人や、不幸な目に遭った人の存在を知っている場合、気持ちを切り替えられない。

 私は元気になった。なんと一日でシクシク悲しみを浮かべた顔が消えた。
だが被害に遭った人はまだシクシク、若しくは恨みつらみを抱えているかもしれない。そんなネガティブ思考を抱えたまま、特にアクションを起こすこともできず、モヤモヤしたまま一週間が経過しようとしていた。

 私が元気になったなら、ネガティブにばかり考えているのではなく、何をしていけばいいか考えなくては。この被害者ぶった考え方が染み付いて、隙あらば時間が解決するだろうとか考える他力本願な考え方は、私が嫌っている考え方で認めたくないことの一つだ。

 私が苦手とする論理的思考の知人は、その点あっさりしている。起こってしまったことは仕方ない、考えるべきはこれから、とすぐに考え方を切り替えて行動できる。よくある原因追求と見せかけた過剰な叱責や、失態により責任を取らなければならないことを責められることもなかった。もちろん原因究明や対策などを行い周囲の信頼をなるべく裏切らないように努めるなど全体が見えていて尊敬するし理想的な上司像と言える。

 常に"今"何をすべきかを考えられるのは羨ましい限りで私の目標でもある。私の一日の多くの時間は過去や遥か未来にばかり目を向けている気がする。
今、何をすべきか
 自分がいつも今に生きていなければ考えられないのではないか?先のことを考えることも大切だが、今を考えられず先のことなど考えられないのではないだろうか?現に私は今すべき事を見誤ることは日常茶飯で、計画を立てたり、計画通りに実行することが苦手だ。

 瞑想は自分軸を今に持ってくるトレーニングになるという。常に頭の中で主に過去の過ちを反芻している私にとって、正しく瞑想できるようになるまでにはかなりの時間を要するものと思える。気がつけば何かを考えていることに気が付く。頭によぎるものをただ観察するだけ、考えず見送るという俯瞰した感覚を掴めず断念したことがある。欲を掻かずに一日5分、10分でも続けていけば何か変わってくるだろうか。
 ヨガマスターの片岡鶴太郎さんは瞑想について、これほどの快楽は無いと断言していた。何時間でもやっていられるという。そこまでの域にいければ趣味にかけるお金を大分節約できるなぁなどと邪念が入る。

 私が間違いなく今すべきことは、当事者に対して誠意を持って謝罪に尽くすことだ。たとえそれに値しない人物だったとしても、立場がそれを否定できないので従うしかない。

起こってしまったことは仕方ない。考えるべきはこれから。

 後ろ向きなことは決してチャームポイントではない。リスクを測っているわけでもないネガティブ思考なら尚更改善すべきだろう。


 私のことを認めて応援してくれた多くの方に、今後一生背中を押され続けていくだろう。ここで得た中で最も大切なことだ。そう感じられる自分で良かった。たくさんの人が私にかけてくれた優しすぎる言葉を素直に受け止め、前に進んでいくための力に変えていきたい。

 失敗を恐れず、とはいかないが、失敗した後の理想的な周囲の方々の姿勢を目に焼き付け、今後失敗しても絶望することなく乗り越えていきたいと思った。
その時に、私の周囲に誰がいても、いなくとも。

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