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普通の人の音楽遍歴 第一回 桐山もげる

「ベレー帽とカメラと引用」1号に掲載の「普通の人の音楽遍歴」桐山もげる氏インタビューの冒頭から、全体のおよそ9割ほど(およそ2万字)をnoteでも読めるように置いておきます。

地方に生きる90年代の若者が、どのようにして音楽に目覚め、そしてフリッパーズ・ギターやその他の音楽に熱中していったのか? 他人事とは思えないようなエピソードが満載です。聞き手はN4書房の中村四郎です。

―― そもそもご両親が音楽好きであったそうですが、最初に夢中になった音楽は何でしょうか。


桐山 父が洋楽好きでした。青春時代にビートルズ、ビーチボーイズ、ゾンビーズといった洋楽をリアルタイムで聴いていた世代です。
母は松任谷由実やサザンオールスターズが好きで、僕が小学校に上がる前の小さい頃から、ドライブをする時にはそれらの曲をカセットでよく聴かせてもらっていました。
自分がポップスのジャンルで一番初めに夢中になった音楽といえば、光GENJIの「パラダイス銀河」です。
それが小学校1年生の頃の1988年で、その年の「第30回レコード大賞」で大賞を獲った曲でした。
大賞を獲った時に諸星くんが涙を流していて、もらい泣きをして母親に「何、もらい泣きして」と笑われたのを憶えています。
そういえば、父は北海道の帯広市出身で、小学校の同じ学年に中島みゆきさんがいたそうです。
当時は普通の子という印象だったのが、父が大学生の頃に人気だったザ・モップス(グループサウンズ)の帯広公演に行ったら前座で小学校の同級生が出ていてびっくりしたとのこと。
ちなみに、第6回世界歌謡祭 - ヤマハ音楽振興会で「時代」を歌い、グランプリを受賞し一躍スターになる前年のことだったそうです。
小学校4年生の頃にはピアノも習っていて、課題曲でモーツァルトやシューベルトなどのクラシック音楽に取り組んでいたりもしましたが、クラシック
はそんなに好きになれず、初恋のクラスメートの女の子がアニメ好きで、その子に聴いてもらうために「ちびまる子ちゃん」「きんぎょ注意報」「キテレツ大百科」などの主題歌を弾けるように練習した思い出もあります。
本当に自分が好きな音楽と言えば、父親が好きな60年代の洋楽ポップスでした。3人兄弟で兄と弟がいるのですが、こんな風に洋楽にハマったのは自分だけでしたから、父に「ビーチボーイズ」「ゾンビーズ」「サイモンとガーファンクル」のカセットを貸してもらって一人でよく聴いていました。
洋楽にハマったもう一つのきっかけとしては、小学校5年生の頃に、2人の英国の高校生がホームステイで泊まりに来た経験も大きいです。
その頃、ボーイスカウトに入っていて、数十人の英国人が来日し、2人ずつくらい誰かの家に宿泊するという企画でウチにも2名の英国人が泊まったのです。
父は少し英語が話せたので通訳になってもらい、なんとかコミュニケーションをとれましたが、自分は英語を習ったこともなく全然話せず、相手が何を考えているかもわからない。
でも最後の夜に「みんなで歌を歌おう」ってビートルズの「ヘイジュード」を歌った時に「ああ、言葉がわからなくても歌で通じ合うことができるんだ」と感じました。その頃は、「音楽は日本より洋楽の方が洗練されている。自分はクラスメートとは違って洋楽がよいと思っている」ということを誇らしげに思っていました。


―― 小沢健二の音楽に惹かれたいきさつを教えてください。

桐山 小沢健二の音楽に出会った時の衝撃は今でも忘れられません。小学校6年生を卒業して、中学校に入学をする前の春休みの出来事でした。
それより少し前の出来事から話す必要があるかもしれません。小学校5年生から6年生に上がるときの春休みに、父親の転勤でそれまで育った「帯広市」から「札幌市」に引っ越しをしました。
その引越しから丁度1年後、1994年の3月の春休みというのが小沢健二の音楽にであったタイミングです。その時に初めて「一人旅」をしました。札幌から、前に住んでいた帯広まで長距離バスで旅行に行ったのです。帯広の頃の友達にも久しぶりに会いたくて。
札幌―帯広はバスだと片道4〜5時間かかります。バスの車内のサービスとして座席の肘掛けの側面にイヤホンを挿すところがあって、何チャンネルか音声が流れるサービスがあったんです。
落語チャンネル、クラシックチャンネル、J-POPチャンネルという感じで。何気なくJ-POPチャンネルに合わせてイヤホンを耳に付けた時、初めに流れたのが「今夜はブギー・バック」でした。
聴いた瞬間、“ゾクッ!”となりました。
血の気が引いた感じというか、電気ショックを受けた感じというか。(これはすごいものを聴いている。絶対最後まで聴かなきゃダメだ)という気持ちになったのを覚えています。「音楽は洋楽しか良いものはないと思っていたけど、この曲は日本語で歌っている。日本の音楽でもよいものはあるんだ!」という感想を持ちました。
「ブギー・バック」を聴いた後は別の音楽が流れましたが、他の曲は覚えていません。そして、ああ、またあの曲聴きたいなぁって思った時にまた「ブギー・バック」が流れました。
そのサービスは1時間に1回ループして、同じ音楽のセットが流れ続けるサービスだったようなのです。それに気付いてから、この曲のみを聴き続けたいと思ったので、他の曲の時間はイヤホンを外し、「ブギー・バック」が流れる頃にイヤホンをつけて、バスに乗っている道中4回くらい繰り返し聴きました。
その時、手元のパンフレットか何かに曲名とアーティスト名が書いてあったはずなのですが、頭が回らぬ子どもだったので(笑)。曲名やアーティスト名のメモを取っていなかったのです。
札幌に帰ってきてから「あの曲のCDを買いたい」と思ったのですが、さぁ大変。曲名がわからない。そこで、なんとか一部分だけでも歌詞を思い出し“甘い甘いミルカンハニー”というフレーズを書き出しました。
近所で割と大きめの「玉光堂」というCDショップにそのメモを持って行って、店員さんに見せました。「この歌詞が出てくる曲が欲しいんですけど」って。若い女性の店員さんも「うーん」って考えてはくれたのですが、結局わからなかったのです。
僕も、メロディに乗せて口ずさんでいればわかってもらえたかもしれないのですが、恥ずかしくて歌えませんでした。
見つからなくてがっかりした帰り道に、「Records-Records」という中古のレコードショップがあって、ダメ元でそこのお店にも行ってみました。
その曲が新しい曲なのか確信がなかったので、中古レコードショップの人がわかるものかもしれないと思いました。今思えば、中古レコードショップだからといってもCDも扱っていましたし、最新の音楽に詳しい人がいらっしゃる可能性はあるのですがダメ元っていう感じでした。
店員さんはおじさんでしたが、
「甘い甘いミルカンハニー」のメモを見せたら、ピンときてくれたみたいで、すぐに「あ、これだよ」と「今夜はブギー・バック nice vocal」のシングルCDを出して視聴させてもらいました。
つい最近入荷したばかりで、さっきまで聴いていたのですぐわかったとのことでした。
即、そのCDを購入しました。
ちなみにそのレコードショップのおじさんは「北村さん」という方で、後に高校生になってからそのお店の常連になり、親しくしていただいて「ロジャーニコルズ」や「ミレニウム」などのソフトロックと呼ばれる音楽を教えてくれました。
家に帰って「ブギー・バック」を聴くと、バスの中で出会った時の衝撃のまま、やはりこの曲はすごいと思いました。
この時に、音楽の中には「聴いて飽きてくるものと、飽きないものがある」と思った記憶があります。
「ブギー・バック」は何度聴いても全然飽きない。この年の夏頃から日本語でRapを歌うのが流行りましたが、自分は「ブギー・バックを超えるものは出てこない」と思っていました。


―― その後、どのように興味が進展しましたか?


桐山 今なら、こんなに衝撃的な曲との出会いがあると、すぐにでも同じアーティストの他の曲を集めようという発想になったと思いますが、中学一年生の頃の趣味は音楽鑑賞というより、「ゲーム」や「漫画」でした。
お小遣いはスーパーファミコンのカセットや、漫画本のために使っていたために、次の曲との出会いまですこし時間が空きます。
次に小沢健二さんにのめり込んだのは、TVCMに使われていた「カローラⅡにのって」を聴いた後です。
歌っている人が小沢健二さんと気づかずに「この人、声がいいし歌がうまい!」と思っているとTV画面に「小沢健二」とあり、「あ!ブギー・バックの人だ!!」って。
名前を確認するまで同じとは思わなかった。曲調が全然違いますし。
でも、小沢健二さんの曲を続けて好きになったことを受け(そうか、自分は小沢健二という人の歌が好きなんだ!)と強烈に感じたのを覚えています。
もしも、スチャダラパーのCMソングが流行っていたらスチャダラパーに傾倒していたのかも知れません。
すぐ「カローラⅡにのって」を買いに行き、そこから、CDショップに立ち寄っては「小沢健二」の名前を探すようになりました。
中学一年生〜二年生のお小遣いの範囲だと2ヵ月に1,000円出すのがやっとで、4〜5ヶ月かけてシングルを2枚買いました。
タイトルは買った順に、
「愛し愛されて生きるのさ/東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」
「暗闇から手を伸ばせ/夜と日時計」
です。
その頃に既にアルバムの『LIFE』は発売していたはずなのですがシングルしかお小遣いでは手が出せませんでした。今思うとこの2つのシングルは別々のアルバムに収録されている曲でもありバランスが良かったかも知れません。
自分の音楽の嗜好として、それまでにハマっていたビーチボーイズについても「Fun Fun Fun」のような明るい曲よりもむしろ、「In my room」のような内省的で暗い曲調が好きで、「暗闇から手を伸ばせ/夜と日時計」を聴いた時に、自分好みの曲だと思いました。
「夜と日時計」についても印象的なエピソードがあります。当時学校の成績に自信がなかったため、学校の「三者面談」の前日に緊張して深夜に目が冴えてしまい、深夜に目が覚めてしまいました。
ふと、この曲をかけてみました、「夜と日時計」というタイトルなので「夜に聴くとよいかもしれない」という単純な発想です。
すると、何度も聴いていたはずのこの曲の歌詞が初めて自分にまっすぐメッセージのように届けられたような感覚になりました。


“無数に咲き散るライラック沿いの平行線を描くように 思いを辿ると
川から流れる凍りついた空気は屋根を登り 急に僕の目を醒すよ”


これまでは、過去の悲しい出来事の思いを歌っているものだと感じていたこの曲の中に、「美しい自然の描写」を発見しました。
そして「そうか。この歌詞は、美しい自然を捉えられているほど余裕を取り戻している状態を歌っているのかもしれない」と思いました。「この曲は落ち込んでいることを歌っているのではなく、立ち直って前向きになっていることを歌っている曲なのかもしれない」と。
その時の自分の心情とも重ね合わせ「落ち込んだって、この曲の歌詞のように、また立ち直ればいい」と励まされたような気になりました。
歌詞というものに向き合い、そこに込められた意味の深さを感じた初めての経験だったかも知れません。
その後、中学二年生の時(1994年)のクリスマスプレゼントに『犬は吠えるがキャラバンは進む』と『LIFE』を買ってもらったとき、「夜と日時計」がどちらのアルバムにも収録されていなかったのでシングルで買っておいて良かったと思いました。


―― 歌詞の深さに触れ、のめりこんでいったのですね。周囲には、同じように小沢健二さんを好きな人はいましたか?


桐山 1994年の冬頃には、人気音楽番組だった「HEY!HEY!HEY!」に出演したこともあり、小沢健二さんの知名度がとても高まった時期でした。
学校でも女子を中心によく話題になっていて、僕も話がしたくてその輪に入りたかったけど、女の子が好きな歌手っていう印象があり「小沢健二を好き」と言うのが恥ずかしくて、勇気がなくてできませんでした。
耳をそばだてて聴こえてきた「オザケン格好いいよね」「東大出身なんだよね」という言葉を聞いては(僕はそういう好きとは違って、曲や歌詞が好きだから。きっと話は合わないだろう)って、輪に入らない言い訳をつくっていました。


―― フリッパーズ・ギターにはいつ辿り着きましたか?


桐山 僕がフリッパーズ・ギターに辿り着いたのは、1995年の中学校二年生の頃、小沢健二さんがシングル曲をたくさん発表していた時期です。
この頃、STV(札幌テレビ放送)のローカルのラジオ番組が好きで、特に毎週月曜から金曜の21時〜23時に放送していた「船守さちこのスーパーランキング」と日曜の深夜24時~25時の「福永俊介のアタックヤング」という番組がお気に入りでした。
両方の番組に福永俊介さんというパーソナリティが出演されていて彼の「世間の流行に一言物申す」という切り口の毒舌な喋りのファンでした。
「船守さちこのスーパーランキング」では、毎日リスナーからの葉書のリクエストやレンタルショップのシングルCDの貸し出し数で算出した曲のランキング形式で流行歌の紹介があり、1995年頃の小沢健二は、新曲が出るとランキングに入る常連でした。
そんな時期に「福永俊介のアタックヤング」で「最近、小沢健二が大人気だよね。でも、小沢健二のルーツはフリッパーズ・ギターなんだよ。そんなことも知らないファンが今多いんだよね。ここで覚えてください」と言って「恋とマシンガン」をかけたのです。
度肝を抜かれました。まず、福永さんの言う「そんなことも知らないファン」がまさに自分で、それまでフリッパーズ・ギターなんて言葉も聴いたことがなかったのです。
小沢健二さんがソロになる前の活動にも全然気づいていませんでした。それと「恋とマシンガン」の曲調が可愛らしいPOP調で可愛らしい声だったことにもめちゃくちゃびっくりしました。
「えっこれ、小沢健二?」
それまで小沢健二さんをVo.ありきで聴いていたためか、小山田さんとの声が似ているためか、その時歌っているのが小沢健二だと信じて疑わなくて、その後もしばらくフリッパーズ・ギターのVo.が小沢健二だと思っていました。
ちなみにこの話は後追いのファンの方と話すと、「そうそう、私もVo.は小沢さんかと思ってた」という方と「いやいや、声全然違うでしょ。間違わないよ!」という方と二分されるのも面白いと思っています。
ラジオを聴いた次の日に早速駅前の「TSUTAYA」のレンタルコーナーにフリッパーズを探しにいきました。置いてあったのは、
『海へ行くつもりじゃなかった』
『シングルス』
の2枚で、両方とも借りてテープに録音しました。聴きすぎてテープが伸びちゃうほど繰り返し聴きました。
特にお気に入りだった曲は、

「恋とマシンガン」
「ラブ・アンド・ドリームふたたび」

です。
この時、『海へ行くつもりじゃなかった』のジャケットに5人写っていることからこのバンドはずっと5人で活動しているのかと思っていたのと、Vo.やリーダーはやはり小沢健二さんなんだろうと思っていました。


―― バンドのことを知ったのはラジオからだったのですね。そこから、バンドのことをどうやって深く調べましたか?


桐山 さきほど登場したフリッパーズ・ギターを教えてくれた福永俊介さんは、もう一度ラジオで衝撃を与えてくれます。
福永さんが同時期に出演していた番組「船守さちこのスーパーランキング」でもある時、「オザケンのルーツはフリッパーズ・ギターなんだよ」と話したのです。
僕は「うんうん」って聞いていたのですが、すかさずメインパーソナリティの船守さちこさんが慌てた口調で「今それ言っちゃダメらしいよ。オザケンがフリッパーズだったってこと。」ってツッコミを入れて「えっそうなの?」と数秒会話が止まるという「放送事故」のような出来事があったのです。
小沢健二さんの情報を集めることに必死だった僕にとって、これはかなりショックなことでした。
「えっ、なんで言っちゃいけないの? こんなにいい曲を残したバンドのことなんだから、みんなに知ってもらった方がいいのに!」
その後、雑誌で読んだのか、別のラジオで聴いて知ったことだと思うのですが当時は、小沢健二さんのプロフィールから「フリッパーズ」という名前が消えていて、メディアもこの名前を記載しないように自粛しているらしいとのことでした。
当時はインターネットなんて便利なものもまだ身近にはなくて、情報を得るにはTV、ラジオの他には雑誌を読んだりするくらいしかありませんでした。
当時の「ワッツイン」「月刊カドカワ」「Pati Pati」などの雑誌で小沢健二という名前を見つけると情報を得ようと隈なく読んでいたのですが、その頃の小沢健二さんのプロフィールからは確かに「フリッパーズ・ギター」という名前が消されていました。
この事態はショックでもありましたが同時に「すごく面白い!」と思える事でもありました。「メディアが教えてくれないなら自分で探しに行く!」と探究心に火を付けてくれたのです。「本当に知りたいことはメディアから受け身ではなくて自分で探していくべし」と教わったのだと良い方に解釈(誤解かも?)しました。
近所の古本屋さんで「Rockin’ on JAPAN」のフリッパーズ・ギター、小沢健二さんのインタビュー記事が掲載されている号を探して立ち読みしては、情報を頭に刻み、小山田さんは現在「コーネリアス」として活動していることを知ったり、コーネリアスのCDを買って、ようやく「フリッパーズのVo.は小山田さんだったのか」と確かめたりしました。


―― コーネリアスに対しての印象はどうでしたか?

桐山 コーネリアスのCDで最初に買ったのが2ndアルバムの『69/96』でした。
フリッパーズの頃の曲調からは大きく離れたヘヴィメタルの要素もあったりするアルバムでしたが、最後の曲がビーチボーイズの「Smiley Smile」の中の曲に似ていて「この人は絶対ビーチボーイズ好きだな」と親近感もあったり、初回盤のピンクのビニールのジャケットのデザインもとても格好良かった。
アルバム全体が一つストーリーになっているような「コンセプト・アルバム」という形式を認識した初めての経験かもしれません。
今でも好きでよく聴いています。
ちなみに、このアルバムが好きということをそれとなく友人に話していたら、同じアルバムが好きな人が学校にいるぞ、と別のクラスの人を紹介されたことがありましたが、その人はヘヴィメタルやハードロック好きで、フリッパーズのことは全然知らなくて、趣味が違うと言われました。


―― その頃に身近な人でフリッパーズ・ギターのことを知っている人はいましたか?


桐山 身近には知っている人はいなかったです。ちょうど10歳年上の従兄弟がいて、その頃に「フリッパーズ・ギターって知ってる?」と聞いたことがありますが、「知らない」と言われたことを覚えています。学校でも小沢健二さんの話題は出ても、そこから「フリッパーズ」という単語を聞いたこともありませんでした。


―― 身近には知っている人がいなくても、自分で色んな情報を探していったのですね。


桐山 はい。この辺り、僕みたいに1995年ごろに後追いをしていたファンの他の方はどんな風に情報を手に入れていたのか、とても興味があります。今だったらインターネットでたくさん情報はありますけど。
そうだ、これ抜きには音楽遍歴を語れないという“本”の存在も非常に大きいです。太田出版の『前略 小沢健二様』です。この本には知りたい情報が詰まっていました。1996年の中学校三年生の時に発売され、即入手していました。
この本の偉大さは、巻末に「元ネタ全曲ガイド」がついていたことです。情報量の多さにびっくり。参照しながら「マイケル・ジャクソン」や「ポール・サイモン」のCDを借りてきては
「おー!この部分確かに!」
なんて感動しながら、それまで聴いていなかったジャンルの音楽を聴くきっかけになりました。このガイドは、今でもバイブルのように参照しています。
また、この本の中に元フリッパーズ・ギターのプロデューサーの「牧村憲一」氏との対談形式の記事があり、そこで語られていた活動当時の2人の印象ややりとりなどの証言が読めたこともとても貴重でした。
「誰もしらないあの時の話」とワクワクしながら何度も読みました。その時はずっと大昔の回顧のお話という印象で読んでいたのですが、今思うとあれは解散してたった5年ほどの時期だったのですね。
それだけの期間でもバンド時代が懐かしくなるほど、解散後の彼らの活動がめざましかったという証拠だと思います。


―― 彼らの音楽から、音楽の幅が広がったのですね。当時、他に聴いていた音楽には他にどんなものがありますか?


桐山 この頃、「ピチカートファイブ」や「電気グルーヴ」などいわゆる渋谷系と呼ばれるジャンルの邦楽のCDもよく聴いていました。
フリッパーズの「ゴーイング・ゼロ」、ピチカートファイブの「東京は夜の七時」、電気グルーヴの「カフェ・ド・鬼」を聴くと、中学3年生の頃の冬休みに学習塾の冬季講習の宿題をやっていたことを思い出すくらい。
勉強するときによくかけていましたね。学習の能率は良くなかったかもしれません(笑)。
同時期に、小沢健二さんの3rdアルバム「球体の奏でる音楽」の発売もありました。これにもまた衝撃を受けました。それまでに発売していたシングル曲の「戦場のボーイズ・ライフ」「さよならなんて云えないよ」「強い気持ち・強い愛」「痛快ウキウキ通り」が全部入っていない!しかも値段も他のアルバムとそんなに変わらないのに曲数も少なくて、60分テープの片面に余裕で入ってしまう。短い!
中学生の僕は「騙された!」と思いました(笑)。
アルバムに収録されるのだろうと思って、ほとんどその頃のシングルは買っていなかったのです。
でも、その悔しさもあって「元をとってやろう」という根性で何度も何度も聴いていたら、「なんて美しいアルバムなんだ。こんなにすごいアルバムはない!」ってめちゃくちゃ好きになりました。
今でも「一番好きなアルバムは?」と訊かれたら迷ってしまうのですが、「一番聴いたアルバムは?」なら、きっとこのアルバムです。


 ―― 中学生時代に聴く音楽の幅が広がっていった様子がよくわかりました。高校時代では音楽の趣味はどんな風に変化しましたか? 


桐山 高校1年生の時期がちょうど1997年です。小沢健二さんもシングル曲をたくさん発表していて継続して好きだったのですが、当時「指さえも/ダイスを転がせ」「ある光」「春にして君を想う」は買っていませんでした。
この点について、後で知り合ったファンの方に聴いても、僕と同じようにこの頃のシングルを買っていなかったという人が多いです。このことについて非常に興味があります。
インターネットで検索しても事実、その3枚はそれ以前のシングルに比べて売上枚数も少ないんです。それは何故なのか?当時からのファンだった人と是非、その時の話をしてみたいと思っています。
僕自身が買わなかった理由としては、気持ちが離れていたわけではなく、当時はコーネリアス、カヒミリィの新譜も買いたかったり、小さい頃から父親の影響で好きだった「The Beach Boys」のオリジナルアルバムのCDをコレクションしたいという欲が増えていたり、音楽のライブに行くチケット代も確保しなければいけなかったりと、趣味の幅が増えたため「CDを買うならアルバムのみ」という選択をしていたためでした。
ちなみに人生初の音楽のイベントは高校一年生の時にいった電気グルーヴの「野球ディスコ」というライブです。
そうそう、電気グルーヴといえば、この頃、石野卓球さんがプロデュースしていた篠原ともえさんのファンでした。あんまりこれを同世代に話しても共感してもらえないのですが、当時の篠原さんは超美少女だったんですよ。主観がかなり入っているかもしれないですが(笑)。歌手というよりもアイドルを好きになるという方向性でのファンでした。でも、恥ずかしくて周囲には言えなかったです。
1997年に篠原ともえさんが札幌でライブをするというので行きたかったのですが、自分の貯金ではチケット代が払えそうにありませんでした。そこで、親にお願いして建て替えてもらう方法しか思いつかなかったのですが「篠原ともえのライブに行きたい」と恥ずかしくて言えなかった。
そこで、当時クラスの仲が良かった女の子を半ば強制的に「篠原ともえのライブ、絶対面白いから一緒に行こう!」と説得し、親には「クラスメイトの女の子にどうしても一緒に来て欲しいって頼まれちゃって・・・」って嘘をついて、チケット代を出してもらった思い出があります。
ちなみに一緒に行った女の子は、初めは嫌々ながらついてきてくれた感じでしたが、さすがはTVの人気者の篠原さんのステージはMCも構成もよくできていてとっても楽しくて、笑顔で帰ってくれてほっとしました。
それからこの頃、「カジヒデキ」さんとの出会いもとても印象的です。初めてカジさんの曲を聴いたのは1996年9月にカヒミカリィさんの「ミュージクパイロット」というNHK -FMの番組にゲストで小山田圭吾さんが出演されたときです。
その回はTrattoriaレーベルの100枚目のお祭り的なBOXセットの「TRATTORIA menu.100」の宣伝をされていたときで、そこで「君の♡のナチュラル」がかかりました。確か小山田さんは格好良く英語のタイトルの「シエスタ」!と紹介していましたけど。
この曲を聴いた時、フリッパーズの「恋とマシンガン」を聴いた時の衝撃にも似た印象を受け一気にすきになりました。1stアルバムの「ミニスカート」を発売日に買いに行っています。
また、高校生の頃に買ったアルバムで特に印象に残っているのはコーネリアスの「Fantasma」です。音の洪水とでもいうような音像に圧倒されました。「God Only Knows」というビーチボーイズの曲と同じタイトルが入っていたり、歌詞カードでBrian Wilsonのコスプレをしていたりとビーチボーイズのネタもあって嬉しかったりしました。


―― 高校生になってからもやはり渋谷系の音楽が好きだったのですね。音楽の話ができる人は身近にできましたか?


桐山 いえ、高校時代にも身近にフリッパーズ・ギターやの小沢健二さんの話ができる人はいませんでした。積極的に探し求めればいたのかもしれないのですが……。周囲で音楽の話題といえば「Mr.Children」「スピッツ」「宇多田ヒカル」「椎名林檎」などが多かったです。宇多田ヒカル、椎名林檎も好きでしたので、その話題に乗ったりして過ごしているうちに小沢健二が好きだと打ち明ける機会がなく終わりました。
高校3年生の学校祭で「のど自慢」という有志でステージの上で歌うイベントがあり、そこで「大人になれば」を歌いました。
もし同じ高校にファンがいたら、それを観て「君も小沢健二好きなの?」とか声かけられるかなという期待もあってのことだったのですが、「懐かしい曲だね」とは言われましたけど、ファンだという人には結局会えませんでした。


―― 大学時代はどうでしたか?


桐山  恥ずかしい話ですが、大学に入るまでに浪人をして予備校に通っていました。浪人時期にも、フリッパーズ・ギターに並ぶ自分の人生に大きな影響を与えるものとの出会いがあります。「大瀧詠一」と「Monty Python」です。
大瀧詠一との出会いは駅前のTSUTAYAでみつけた「A LONG VACATION」がきっかけでした。
「イチオシ!」というPOPと共に置いてあり、他のアーティストの新譜と一緒に並べてありましたので、てっきり高校生の頃に流行った「幸せな結末」が入っている新譜だと思い、それを期待して買いました。値段も1,000円台で手が出しやすかったというのもあったと思います。「CD選書シリーズ」の再発版でした。
買った後に、「幸せな結末」が収録されていないとわかりましたが、名曲揃いのこのアルバムはすぐに愛聴盤になりました。大瀧詠一さんの声が好きで、また歌詞がとても美しいと思いました。
この作品がフリッパーズ・ギターよりもさらに昔の、80年代初めの作品であると知ってまたびっくりしました。すぐに、大瀧詠一さんの他の作品を調べに町中の中古CDショップを巡りました。
当時、大瀧詠一さんのソロの作品が1枚1,500円程の廉価版でさらにボーナストラックも付いて再発されており、中古だと1枚1,000円ほどで買えました。
浪人時代は昼食代として使うために1日500円を親からもらう約束になっていて、それを使わずに自分でおにぎりを作ったり、時には水だけ飲んで我慢したりしては浮いたお金で大瀧詠一さんのCDを買っていました。浪人生ですよ!勉強しなきゃいけない時期に、興味は音楽を聴くことばかりでしたね。その執念、自分でも呆れてしまいます(笑)
初期の作品の「大瀧詠一」「NIAGARA MOON」「GO! GO! NIAGARA」はそれまで知っていた「A LONG VACATION」「幸せな結末」とは違い、メロディタイプの曲調ではなく「ノベルティタイプ」と言われる諧謔精神たっぷりの曲が沢山あることや、60年代のポップスの要素が沢山詰まっていて、「洋楽を下敷きにして日本語の歌にする」という構造がそれまでに好きだったフリッパーズ・ギターを始めとする渋谷系とよばれる音楽によく似ているなと思いました。
洋楽の要素を取り入れて日本のポップスに昇華させるような音楽を自分は好きなのかもしれないと思いました。
「Monty Python」を知ったのは、当時日本でもヒットしていたローワン・アトキンソン主演の「Mr. Bean」にハマったことがきっかけです。
NHKの深夜枠で放送されていた「Mr. Bean」を毎回録画していて、ある時ルーチンのように録画していたその放送枠で、別の番組が録画されていたのです。それが「Monty Python」でした。「Mr. Bean」が最終回で終わり、同じ枠で放送されていました。
言葉ではなく動きを使ったコミカルな演技のMr. Beanはともかく、外国語のコメディはきっと面白くないだろうと思い全然期待せず観てみると、びっくりするくらい面白くて、それから一気にファンになりのめり込みました。
Monty Pythonのビデオを片っ端からレンタルしたり、古本屋で情報を集めました。その情報の中に1976年代に日本で初めて「東京12チャンネル」でMonty Pythonが放送され、その放送枠にタモリ出演し、「四ヵ国後麻雀」などの密室芸を披露していたと見つけました。
タモリが密室芸を披露するビデオも見つけてレンタルしてこれまたびっくり。それまではタモリは「TVの司会者」というイメージだったのですが、「超一流の芸人」という見方に変わりました。全て、勉強に一番精を出さなければいけなかった浪人時代のことです(苦笑)。


―― なるほど。浪人時代に新たな趣味が生まれ、世界が広がったのですね。その後それらの興味はどうなっていきましたか?


桐山 大学に入ってから1年間は様々なことにチャレンジしました。タモリが大学生時代に「モダンジャズ研究会」に入っていたので、自分も同じ肩書きを持ちたいというだけの理由で「JAZZ研究会」というサークルに入りました。
本当はトランペットが吹きたかったのですが、先輩から「ドラムをやりなさい」と割り振られ大学祭のステージでドラムを演奏しました。周りの演奏レベルが高く3ヵ月ほどでやめてしまいました。ただ、この挫折の経験は「自分にとって音楽は演奏するのではなく、聴く方が性に合っているんだ」と思えたよい経験です。
他にも、Monty Pythonのようなコントをやりたくてお笑いサークルも訪ねてみたのですが、先輩が全員留年をしているという集団で、ここに入ったらまずいと思い、入るのをやめました。既に浪人していましたから。
大学時代に一番打ち込んだのは塾の講師のアルバイトです。元々はアルバイトをするなら家の近所の中古CDショップがいいと思っていました。中古CDショップで働けば、商品にしているCDをいくらでも聴き放題でさらにバイト代も貰えるという薔薇色の生活ができるのでは!?と思ったからです。
ですが、アルバイトの申し込みにいったら「今は募集していません」と断られてしまいました。タイミングよく、その日に「塾の講師のアルバイトの面接に一緒にいかないか」と同級生に誘われました。自分なんか塾の先生の柄じゃないと思っていたのですが、バイト代が貰えるならと小学6年生〜中学3年生までを教える塾の講師になり、それがなかなか良い収入になり欲しいCDはなんでも買えるという、それはそれでよい結果でした。
音楽に関する情報を集めるにあたり、大学に入ってから最も大きく変化したのは、インターネットを使えるようになったことです。
大学の自習室にあるPCで自由にインターネットを使用できるようになり、バイト代で自宅でもインターネットを使えるように環境を整えて、フリッパーズ・ギターの情報を集めたり掲示板に好きなことを書き込んでいたりしていたら、インターネットを通じて友達もできました。
大学一年生の頃が2001年で、その年はCorneliusが「Point」、小沢健二が「Eclectic」を発表した年でした。
インターネットの掲示板でそれらの2つの作品について次のような感想が目に止まりました。
“フリッパーズ・ギターの音楽は自分の人生に色をつけてくれた。2000年に入って大人になった彼らが発表した作品は 音楽性は違うものの 発表の時期の近さの不思議なシンクロニシティも含めて2人で笑い合って作った作品なのかと思えてくる“
まるで自分が書いたのじゃないかという共感できる文章、嬉しくなって書かれていたE-mailアドレスに感想の文章を送ったことがきっかけでその人と連絡を取るようになり、すぐ仲良くなりました。今でもその人は親友です。


―― インターネットで知り合った人とようやく好きな音楽の話ができるようになったのですね。その他に、大学時代にどんなことがありましたか?


桐山 大学時代には様々な出会いがありましたが、そのほとんどが、中学生時代から好きだったものに何かしら共通しているという発見がありました。
その一つの象徴が、大瀧詠一さんと牧村憲一さんの関係です。
大瀧詠一さんについてインターネットで情報を集めていましたら、2001年〜2002年に、大瀧詠一さんがかつてDJを務めていた伝説的なラジオ番組「GO! GO! Niagara」の再放送を行うことがわかりました。
しかも再放送の前後に数分今の大瀧さんのしゃべりも新録されるという、これはどうあっても聴かなければいけない、という番組!
しかし、この放送は関東エリアのみの放送で、北海道では放送されない番組とのことで絶望しかけました。
その話を「ブギー・バック」を買った時にお世話になった「Records-Records」の北村さんにしたら「ラジオを窓際で周波数合わせると、意外と遠くからの電波も受信できるよ。東京からのラジオなら聴けるんじゃない?」とアドバイスをいただき、その通りに試してみたら、時々大きなノイズは入るのですがなんとか聴くことができたのです。それは本当に嬉しかった。その再放送は、ほぼテープに録音して聴いていました。
その中の、2002年2月10日に再放送した回というのが本放送では1977年3月21日の放送で、大森昭男さん・伊藤アキラさん・牧村憲一さんをゲストに大瀧さんが「三ツ矢サイダー」をはじめとする数々のCMソングを作った際の裏話や貴重なDEMO音源を流されたりする回でした。
「牧村憲一さん」というお名前を聴いて、初めはピンと来なかったのですが、再放送の本編が終わり、新録された大瀧さんの締めのしゃべりパートの中で「今回登場された方の経歴は……」という紹介があり「牧村憲一さんは後にフリッパーズ・ギターのプロデューサーとなられる方」という言葉がありました。
とんでもない衝撃が訪れた瞬間でした。大瀧詠一さんの口から「フリッパーズ・ギター」という単語が飛び出したことも嬉しい衝撃でしたし、牧村憲一さんは、中学3年生の時に出会った「前略小沢健二様」のインタビューにも登場されたフリッパーズ・ギターのプロデューサーの方!
私が大好きな大瀧詠一さんとフリッパーズ・ギターのどちらとも深く関わって仕事をされた方なのだと、その時やっと知りました。それ以来、自分の好きな音楽を研究する際の最重要キーワードは「牧村憲一」さんです。


―― 好きだったものに意外な共通点があったのですね。就職してから以降の音楽遍歴はどうでしたか。


桐山 2008年4月に就職をしました。そこから約半年間、ほとんど音楽から離れた生活をすることになります。とあるメーカーの営業職に就職したのですが、資格をとるために合宿の詰め込み式で寝泊まりする部屋にはテレビやラジオも無いという環境。それが10月まで続きました。
10月に研修が終わり、東京に配属され晴れて営業職として仕事をすることになるのですが、慣れない土地での仕事や、自分なりにいくらがんばっても評価されない日々が続き、ほんの数ヶ月で夜も寝られず、鬱々とした日々が続いていました。
眠れない夜に、「いっそ、一晩中酒を飲み歩こう」と自棄になって夜中に東京の街を彷徨っていたときに「晴れたら空に豆まいて」という音楽の生演奏が聴けるお店が目に止まり、ふらりと入りました。
2,000円くらいのchargeを払ってワンドリンクと数組のアーティストの生演奏が聴けるというシステムでした。そこで出演していた、「森ゆに」さんというソロのピアノの弾き語りのアーティストの歌声にとても癒されました。
「そうだ、自分は音楽が好きだった。今自分に必要なものはお酒ではなく、音楽だ。音楽を聴けば自分を取り戻せるかも知れない」と、気が楽になりました。音楽に救われた体験です。
それから都内のライブハウスに週に1回は通うのが趣味になり、特に、森ゆにさんの出演情報をみつけては足を運んでいました。
その森ゆにさんを通じて、また興味がフリッパーズ・ギターに戻ってきます。2009年に「夏は来る」という1stアルバムのなかで「球体の奏でる音楽」の「旅人たち」をカヴァーされたり、森ゆにさんがソロになる前に在籍していた「ビンジョーバカネ」というバンドにがフリッパーズ・ギターのトリビュートアルバム「The Sound Of SOFTLY! Vol.1~tribute to Flipper’s Guitar~」に参加して「Slide」のカヴァーを歌っていたことも知りました。
またしても“好きなものがつながる”という経験。久しぶりに『LIFE』を聴いたら、


“いつか悲しみで胸がいっぱいでも Oh!Baby続いてくのさDAYS(ラブリー)”
“そして毎日は続いてく 丘を越え 僕たちは歩く(僕らが旅に出る理由)”

「何で今の自分の気持ちがわかるんだ?」とびっくりするくらい歌詞が自分の今の境遇に寄り添い、励まされたような気がしました。
『LIFE』の歌詞はそれまでは小沢さんを主人公に「インテリで上流階級の人」の境遇を描いていて、つまり、自分の生活とは遠い世界だと思って聞いていたので、こんな風に自分の生活に深く結びつく時が来るなんて思ってもいませんでした。そこから、小沢健二さんの歌詞にある「時間や場所を超えて聴いている今の自分の生活に結びつく」魅力を感じ、小沢健二さんの曲をまた深く聴くようになりました。


―― 一度生活から音楽が離れたのに、また生活の中に戻ってきたのですね。


桐山 はい。また、この頃からネットを通じてでは無く実際にお会いする人の中で、音楽のことを語り合える友人ができました。
2009年に下北沢で小山田圭吾さんとバッファロードーターのムーグ山本さんトークイベントがありました。開場される前に早めに会場について待っていた時に一緒に待っていた人と話をしたのです。
小山田圭吾さんのイベントなら、コーネリアスのファンなのかなと、勇気を出して話しかけました。するとその人はリアルタイムでフリッパーズ・ギターを聴いていたファンの方で、思いもかけず貴重な話を聞かせてもらったり、自分のこれまでの音楽遍歴を話させてもらいました。
その方と連絡先を交換し、今でもよく小沢健二やコーネリアスのライブ会場でお会いしたり、情報交換をしています。人生で初めて「フリッパーズ・ギター、小沢健二のファンと直接話す」経験をした人です。


―― ようやくここで、ファンの人と直接意見交換ができるような関係が築けたのですね。ファンの人との交流によって何か変化したことや得たことはありますか?


桐山 小沢健二さんのファンの方とお話をしてみると、「歌詞に惹かれた人」、「曲が好きという人」、「容姿を含めアイドルとして感じている人」など様々な観点で好きな方がいらっしゃるので、多彩な魅力のある人だと思うのですが、僕の一番興味のあることは、「歌詞に惹かれた人」から“どの歌詞の部分が好きか”“どんな場面でそれを好きになったか”というエピソードを聞くことです。
人によって好きな歌詞の部分が違うことが先ず興味深く、そして多くの方がそのエピソードを本当によく覚えていて「いかにあの歌詞が自身の生活に結びついているか」を語ってくださいます。
そうした経験もきっかけとなって「小沢健二の歌詞の秘密」について気づいたことがあります。
“何故小沢健二さんの歌詞が多くの人の生活に結びつくのか”その謎を解く鍵は歌詞に適度に「固有名詞」が登場することにあるのではないかということです。
例えば“東京タワー”“いちょう並木”“港区”“いとしのエリー”“シリアルママ”など。東京やその周辺に実際に存在する場所や実在する曲や映画のタイトルの名前が登場します。それが多くの場合高頻度ではないということも重要なポイントです。
高頻度に登場すると、私小説のような小沢健二さんだけの物語となってしまいます。「アルペジオ(2018年)」の歌詞はそれを意図しているかのようでした。
多くの作品は時に抽象的な言葉や、心象風景と重なるような美しい自然の描写の中に、たまに現れる「現実」を表す固有名詞があります。
それはきっと、これらの歌詞が小沢健二さん自身の生活の中で生み出したモノであることを示し、歌詞を聴いた人がこの歌詞の世界が幻想や夢物語ではなく、現実を歌っていて自分の身にも同じような場面が確かにあると気づける仕掛けになっていると思いました。
そう思ったきっかけに小沢健二さんが2014年に示した「地図」があります。
『LIFE』いう映像作品がDVD化された際にブックレットと共に封入されていて、全体が「東京の街」と思わしき地図になっていて、“ハズカシナガラモ イッタリキタリ”という文字と共に様々な歌詞に登場する地名が書かれています。
(同じ地図が小沢健二さんの公式サイト「hifumiyo.net」にも今も公開されています。
→ http://hihumiyo.net/backandforth.html)
その中に“教会通り”という地名が書かれているのです。
“教会通り”といえば、
“教会通りに きれいな月(流れ星ビバップ)”
“サクソフォーンの響く教会通りの坂降りながら(さよならなんて云えないよ)”
に登場する場所で、この地図をみるまで「特定の場所に存在する場所」であるとは思っていませんでした。
たまたま東京に住んでいましたので、この地図を頼りに”教会通り“の場所に行ってみました。すると、これまで曲を聴いていただけでは気づかなかったことがわかりました。
この“教会通り”は確かに「坂」になっているのです。その坂を“降りていく”ということはこの方向に歩いていたのだろうということや、
“きれいな月”が見える時間に歩いていたということは、自動車を運転していたのではないはず。ということは、誰かお酒を飲んだ帰り道なのだろうか、という感じに想像が膨らんできました。
いわゆるアニメや映画などの舞台になった場所に赴く「聖地巡礼」を歌詞においても行うと、より歌詞で表現されている場面がリアルに感じ、理解や想像が膨らむ体験をしました。「地図」によってそのような楽しみ方をさせてもらいました。
それからもう一つ、この「地図」を見たことによって得た仮説があります。これは自分が発見した仮説として鼻息荒く、何度か語ったことがあったのですが、最近“小沢健二さん本人”から「全くの的外れ」という主旨の発言があり、もう、「失敗がいっぱい」なオチがついているのですが(笑)、せっかくなのでここでも披露させてください。
長らく『LIFE』のCDの「歌詞カードの曲の順番」を疑問に思っていました。
CDをお持ちの方は是非確認をしていただければと思うのですが、「実際の曲順と歌詞カードの曲順が違う」のです。
CDの実際の曲順は、
1.「愛し愛されて生きるのさ」
2.「ラブリー」
3.「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」
4.「いちょう並木のセレナーデ」
5.「ドアをノックするのは誰だ? 」
6.「今夜はブギー・バック (nice vocal)」
7.「ぼくらが旅に出る理由」
8.「おやすみなさい、仔猫ちゃん! 」
9.「いちょう並木のセレナーデ (reprise) 」
ですが、歌詞カードの順番は、
7.「ぼくらが旅に出る理由」と8.「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」の順番が反対になっています。つまり、歌詞カードにおける最後の曲は「ぼくらが旅に出る理由」になっているのです。
これは、例えば、曲によって歌詞の長さが違うから「見開き1ページ1曲分の歌詞が収まるように、順番を前後させた」という具合に「ページの体裁」の問題とするならば納得がいきますが、「僕らが旅に出る理由」も「おやすみなさい、仔猫ちゃん!」も、どちらも片側1ページに収まっているので、そういうことでもなさそうだと思いました。
“何故、歌詞カードの最後は「ぼくらが旅に出る理由」でなくてはならなかったのだろうか。”
それを考えるヒントとなったのは、『渋谷音楽図鑑』の中で牧村憲一さんが「ぼくらが旅に出る理由」の歌詞に触れられていたこの言葉です。


牧村憲一 「言葉については、彼は天才だと思う。この曲も東京とNYと宇宙という三角形を意図している。」(『渋谷音楽図鑑』太田出版より)


歌詞に登場する“摩天楼”とはNYの象徴であり、NYといえば、小沢健二さんが『LIFE』発表後の1998年に生活の舞台を日本から移した場所です。
『LIFE』の曲の歌詞と曲順を再度確認してみますと、
1.「愛し愛されて生きるのさ」では
“ふてくされてばかりの十代”
“大きな川を渡る橋が見える場所を歩く”
小沢健二さんが過ごした高校生の時代と思われる「神奈川」で過ごした生活を歌っていると思われる歌詞があります。
その後の曲では、大学時代以降の生活の舞台である「東京」に移ります。
3.「東京恋愛専科・または恋は言ってみりゃボディー・ブロー」
では曲名に「東京」が使われていたり、
5.「ドアをノックするのは誰だ? 」の歌詞には
“原宿あたり風を切って歩いてる”
と生活の舞台の「東京」のキーワードを散りばめられていることからもそれが伺えます。そして、小沢さんが後年生活を移す「NY」を示すキーワードが登場する、
7.「ぼくらが旅に出る理由」につながっていく。
ここで改めて聖地巡礼の場所を参照した「地図」を見てみると、この地図は「東京」を中心としてはいますが、「多摩高校(神奈川県)」「成田空港(NYへ続く玄関)」も一緒に描かれていることに気づきます。
この「地図」は「小沢健二さん自身の過去から未来へとつづく人生という名の旅の地図であり、歌詞カードは旅のしおりである」というのが僕の仮説でした。
そのため、『LIFE』発表時点では未来である「NY」を示す7.「ぼくらが旅に出る理由」を、旅のしおり(歌詞カード)に記載する順番として一番最後にしたのではないかと思いました。
しかし!ここからがオチです。
今年(2020年)の3月28日にTwitterで「『LIFE』をみんなで同時に聴こう」という「LIFE丸聴き」という企画があり、その最中に質問などにも本人自らが答えてくださるという企画がありました。
そこで、誰かが「Q.歌詞カードの順番が違うのは何か意味があるのですか?」と聞かれた質問に対し、小沢さん本人が「A.文字数!」と回答されていました。
なんと色々と勝手に妄想を膨らませて考えた仮説は「文字数!」という4文字のもとに砕け散ってしまった、という(泣)。


―― そのやり取りは私も見ていました。ただ、「文字数!」というのは「歌詞カードの文字数」という意味にも取れますが、「Twitter(の140文字の範囲内)ではとても書ききれない!」という意味にも取れませんか? Twitterではそういった意味で使われるケースが多々あります。

桐山 あっ!すごい!そうかもしれないですね!全然気づきませんでした。確かに、そういう意味の可能性もありますね。そうではないかと思うと、そうとしか思えないほど(笑)。
だって、仮説の中にも書きましたが、歌詞カードのスペースの問題とは考えにくいんです。順番が入れ替わっている7曲目と8曲目の歌詞はどちらも同じ1ページで収まっているので……。
真実はわかりませんが、仮説が全く死んだわけではないという気付きをいただき有難うございます。この仮説について「そうではないと思う」という反論や「別の仮説」などがあれば、ぜひお聞きしてみたいとも思っています!

―― ファンの人との交流をされながら歌詞に対する考察を深めているのですね。ファンの人とは具体的にどのような場所で会われているのですか?


桐山 ファンの方と交流は、小沢健二さんのライブの時に声をかけて知り合ったり、あるいは「渋谷系の音楽」がかかるDJのイベントに参加して行っています。
最近は牧村憲一さんがオーナーを務められている「music is music」というプロジェクトの「ミムサロン」にも参加していて、定期的にイベントにも行っています。
そこで知り合った方と交流していることも非常に刺激的で、勉強させていただいています。「ミムサロン」にご興味のある方は是非検索してみてください。


―― ミムサロンに参加されたのは、いつ頃からですか。


桐山 2019年4月の開始から間も無く参加しました。それより2年ほど前から、牧村さんが登壇されるトークイベントには足繁く通わせていただいています。
その際に、牧村さんに覚えていただきたくて必ずコーネリアスの「©️マークのTシャツ」を着て参加するようにしていて、通ったイベントの何度目かに「また来てくれたね」と光栄なことに、お声をかけていただくこともありました。狙ったこととはいえ、とても感激しました。
同じく何度も参加されている方にも覚えていただきやすいみたいで、声をかけていただきやすく、嬉しいのでそれは続けていきたいです(笑)。

―― 参考までに、桐山さんが最近の音楽で新作が発売されたら必ず買うというアーティストを8組とお気に入りの曲を2曲ずつ挙げるとしたらどんな曲でしょう?


桐山 インタビュー中に名前を上げたミュージシャンはもちろん、それ以外で挙げるなら、(末尾に※)とついている曲を、以下のQRコードからアクセスするSpotifyのプレイリストで聴くことができます)

・柴田聡子
―「カープファンの子」「あさはか!※)」

・堂島孝平
―「Hello,Hello」「境/界/線※)」

・中村佳穂
―「LINDY※)」「きっとね!※)」

・おとぎ話
―「ネオンBOYS」「NEW MOON※)」

・CHAI
―「N.E.O. ※)」「sayonara complex※)」

・奇妙礼太郎
―「君が誰かの彼女になりくさっても」「恋愛重症※)」

・スカート
―「トワイライト※)」「ずっとつづく※)」

・SOLEIL
―「魔法を信じる?※)」「太陽がいっぱい※)」
です。

―― 本日はどうも有難うございました。


桐山 有難うございました。


 (聞き手:N4書房/中村四郎)


上記のインタビューで言及のある曲のプレイリストはこちらです。


「ベレー帽とカメラと引用」1号は現在販売中です。

宮沢賢治の「竜と詩人」、「歌詞について考えてみたい子羊たちに送信してあげたいブックガイド【黎明編】」(御野洲皆斎)、「盗賊が抜き書きした『おしゃれなポップ・デュオ』に関するノートからの抜粋」(小川こねり)、緊急座談会「この世界とよく似たもうひとつの世界の巻」「推し盤はどれ?の巻」など、盛りだくさんな内容で800円です。



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