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04号から05号まで日記 0530-0605

0530

今夜の「music is music」は最後に「ベレー帽とカメラと引用」の告知をしていただいた(来週かと思っていたら今週だった)。お陰様で04号は残りあと一冊、03号もあと数冊で在庫がなくなる。



0531

とうとう04号は完売した。

「オーイェー!やったぜ自分!そして、関係者一同と読者に有難う!」という達成感はなくて、すごろくでいう「ふりだしに戻る」のマスから元に戻ったような感じ。これから新装版の04号→01号→02号と作り直す。

 

本の在庫が手許にたくさんあると、精神的にも物質的にも重苦しい。皮下脂肪が沢山ありすぎのようでつらい。ところが、いざ在庫が消えてしまうと今度はスカスカして、やせ過ぎのような心細さがある。ほどほどに在庫があって、注文が途切れなくある時は単純作業ばかりで頭も心も空っぽになる。どの段階で止まっても、停止するとしんどい。

 

三つの段階をグルグル回していると、いつの間にか回すこと自体が目的になってしまう。今はピーク時でもせいぜい一日数十冊で済んでいるが、これより規模が大きくなったら身動きがとりにくくなる。

 

 

0601

大阪なおみが記者会見を拒否した件で、小沢健二が英文で擁護のコメントを出していた。以下はニュースサイトの訳。

「『すべてを言う/定義する』は、ヨーロッパ文化特有の文化的・哲学的エートスであり、普遍的なものではありません。私たちの気風は、『言われたことよりも言われていないことの方が重要』『物事を未定義のままにする』『行動はより雄弁に語る』です。りんごとオレンジですね」。

大阪なおみは少し前にラケットをへし折ったりもしていたので、それを考え合わせると「西洋/東洋」と二分はしづらい。スポーツ選手に限らず、大した質問がある訳でもない形式的な記者会見は早く絶滅すればいい。将棋はテニスよりもっと形式的で簡単に終わり、中身のあるやり取りや考察はきちんとした書き手や雑誌が追うことになる。

 

04号のダメージ本を売り出してみたら、3時過ぎに販売開始で5時前には完売した。これは無駄がなくて、読みたい人のところへ本がすぐに届くのでよかった。つい先日、小さな出版社が「ダメージ本フェア」をやっているのを見かけて「これはきっと価格を安くしても売れないんだろうな」と内心で思っていただけに、自分の本がこういう形で売れてくれるのは二重三重に有難い。

 

 

0602

役に立つかどうか不明だが岩波文庫の「曖昧の七つの型」を読み始める。

 

 

0603

「i-D japan」の92年2月号を読み直したらけっこう面白かった。「A級保存企画 フリッパーズ・ギター解散の謎を追え!」と表紙に大きく書いてあって、この雑誌が出た92年から見れば近未来になる98年に「ロンドンでFGのアナログ盤が出て話題になった」→「その時に海外から取材に来た人が残したノートに書かれた記録」という体裁になっている。

「犬キャラ」が93年9月、コーネリアスの1stは94年なので、その前の時点のふわふわした小春日和のような猶予期間の様子が垣間見える。小沢健二はまだソロ活動をする気配すらなく、FGに関しても「ドルフィン・ソング」はいいなあ、とストレートに話している。小山田圭吾はまだコーネリアスではなく、「ムー」の再放送を見たり「ゼルダの伝説」をしたりで、のん気なプー太郎生活を満喫しているとのこと。

この記事以外に「FG」「小山田圭吾」への言及が三ヶ所もあり、いかに世間から注目を浴びていたかが伺われる。「FG」は消えてなくなり「渋谷系」という言葉もまだ流通していない、92年という微妙な谷間にある空白期。この時期のことを思うと、何とも表現しがたい感慨を持つ。

未来に楽しみな何かがあってワクワクする感じとはもちろん違うし、過去に起きた大きな出来事を振り返る懐かしさとも少し異なる。何もなくて、しかし確実に何かが始まる前の「来るぞ来るぞ」と「でも、来ないかもしれないぞ」が入り混じった、不定形で、未定の段階を思い返す。

 

 

0604

11月の文学フリマに出店するかどうかを考える。

 

 

0605

オリジナルラブ、コレクターズ、フランシスと渡り歩いた、フランシスの小里誠さんのお話と熱唱に魅了される(都内某所)。これほど真っ赤なジャケットと赤いバラが似合う人物は、ルパン三世か小里誠さんしかいない。

 

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