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とうちこ奇談

序論

「顔かたちうつくしけれどもいとおそろしきものにて夜な夜な出で『ちこ』と発す
 名はいかがにや知らずただ『とうちこ』といふ」

今昔奇妖物語 百五十頁より抜粋

 上記の引用は1840年(天保10年)に刊行された江戸時代後期の書物「今昔奇妖物語」の妖怪名彙に記されてる一説である。
 また明治から昭和初期の東海の地方紙でたびたび”とうちこ”を目撃したとの記事が掲載されている。つまり、その当時でもこの種の記事はあったわけである。しかもそれは新聞報道されるほどに重大な問題として認識していたということである。それが証拠に、昭和10年12月14日付の東西新聞では、<トウチコ出没、怪異ノ謎ニ迫ル>という特集が組まれている。
 このように過去東海地方では、とうてい無視できない存在であり、かつ人々の関心を惹いていたと考えられる。それなのに、なぜ今日までその存在が確認されなかったのか? この疑問にはさまざまな解答が考えられるだろうが、ここでは私自身の考えを述べてみたいと思う。

"とうちこ"とは?

 兎にも角にも、まずはとうちこに関する詳細をまとめたい。序論で挙げた今昔奇妖物語の引用では、「容姿は美しいがとても恐ろしい」とあり、なんとも矛盾しているような説明から始まる。また、一番の特徴として『ちこ』という声を出すという点だ。これに関して東西新聞の特集のある目撃談を紹介したい。

 新月にて闇が濃いある夜、帰路の途中で十二、三の女子が佇んでいるのが見えた。夜分に子供が一人では危ないと思い声をかけようと近づいたが、咄嗟に踵を返した。それは明らかに寸尺がおかしかったのだ。背丈もそうだが、何より手足が異様に長かった。
 今にして思えば、どうしてあれを女子と思ったのかはわからない。ただ逃げ去る背後から「ちこ、ちこ」と聞こえた。

東西新聞<トウチコ出没、怪異ノ謎ニ迫ル>より一部抜粋

 やはり特徴に関しては、どの目撃談にもあくまで書かれている文面を読む限りではあるが、「ちこ」と聞こえるという記述ばかりである。この一点が、いやこの一点こそが、とうちこをとうちこ足らしめる特徴なのである。というのも、容姿に関する特徴が曖昧なのだ。先に挙げた抜粋では幼い女子の姿をしているとしているが、他の目撃譚によると着物姿の成人女性であったり、打って変わって人ですらなく神々しい犬の姿をしていたり、姿形が思い出せないがおぼろげながら美しかったという得体のないものまである。
 以上の情報からしてもとうちことは何かと考えることは難しい。そこでとうちこを深掘りするために、よく知られた怪異の考察をしていきたい。

すねこすり —怪異の考察

 さて、ここで一つ別観点から"とうちこ"を考察するために"すねこすり"という妖怪を例に挙げたい。すねこすりは佐藤清明が著した『現行妖怪辞典』が口頭伝承でない形で残されている一番古いものであるとされている。

臑こすり 犬の形をして雨のふる晩に通行人の股間をこすって通る。 岡山県小田郡

『現行妖怪辞典』(方言叢書第七篇、中国民俗学会、1935年)

 すねこすりに関して様々な怪談がある。ここでは詳しく紹介はしないが、大まかな流れとしては次の四つが特徴である。

  1. 夜、足に何かがすりよる感触を感じる。

  2. 足元を見ると猫とも犬ともわからない生物を見つける。

  3. 体験者が驚き退く。

  4. 闇夜にその生物が消える。

 さて、以上の特徴を見るに人懐っこい可愛らしいもののように見受けられる。そのためか、かの有名な水木しげるはすねこすりを人懐っこい好感の持てるフォルムで描いている。
 このすねこすりであるが、岡山県の高梁の方ではすねこすりを別名で「股くぐり」と呼んでいたようである。確かに、先に挙げた引用では「通行人の股間をこすって通る」とあるためこの別名には納得のいくものがある。しかしながら、すねこすりの怪談の大まかな流れを見ていただきたい。3番目の流れで体験者は驚き退いているのだ。
 つまり、この怪談の報告者はすねこすりに股をくぐられていないのだ。
 私はここに大きな疑念を抱かずにはいられない。くぐられた方の怪談報告がないのはいわゆる生存性バイアスではないだろうか?
 すねこすりという妖怪は股をくぐることをスイッチに怪異に巻き込むモノなのではないか、というのが私の推論だ。すねこすりの報告者は、つまり、口裂け女にべっこう飴を投げて逃げる、もしくは花子さんに100点の答案を見せるという怪異の回避として運良く股をくぐられる前に退いたと考えられる。

とうちこに関する推論

 さて、そろそろとうちこに関する私の推論をお話したい。
 とうちこに関する目撃譚は大まかな流れは同じである。

  1. 夜中に美しい生物(人型である場合が多い)を目撃する

  2. それに近く

  3. それの異変に気付き逃げ出す

  4. 「ちこ」と背後より聞こえる

 これもすねこすりの考察と同じで報告者は逃げ出しているという点と目撃した生物の異常性に気づくという点がバイアスがかかっている点だ。
 この流れは我々日本人には想像のしやすいだろう。まさしくイザナギが黄泉の国でみた変わり果てた妻 イザナミから逃走する日本神話の『呪的逃走』に他ならない。
 例えば、口裂け女のように。美しい女性がマスクを外し、恐ろしい素顔を見せられ逃げ出す。醜さからの逃走。
 とうちこの話は美しい生物だったものに、脳内に現れた不和、違和感のバグからの逃走である。

まとめ

 以上をもって私の妄言を締めさせていただく。あくまで私の推論であって的外れなモノである可能性は高い。なにせ実際に私はとうちこを目撃したことはないし、目撃譚も似通っていて材料が足りない。実際のとうちこは、カラスが「カー」と鳴くように、ハシビロコウがくちばしを鳴らすように、とうちこも「ちこ、ちこ」と発生しているだけにすぎないかもしれない。
 とにかく、皆様も夜間に「ちこ」と聞こえたらその正体に迫って欲しい。近づいてみて欲しい。
 近うよれ……近うよれ….


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