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息子たちの新しい日々~特別支援学級同級生の3歳差兄弟~

新学期が始まって早くも2か月がたとうとしている。
特別支援学級で同級生をしているわが息子たちも、
自然の流れで新しいことを受け入れながら、
毎日を送ることができている。
そう思うと、なんかたくましい。

だけど安易に「受け入れている」というと
ほんとのところそうではないのかもしれない。
というのも、毎日平穏に暮らしていながらも
なんだか微妙なズレが生じているのかも?と思う節があるから。

感情が乱れるとき、そういうときこそ
『言葉』で表現してくれたらいいのに。
それがなぜか他者への攻撃性として表れてくるから悩ましいもんで。

それでいてそういう時に限って
感情がおさまらなくって
武器を持って戦闘体勢に入ってしまったり。

そこで今までと違うのは、
長男が担任に小2ぶりにねじ伏せられたというのだから驚き。

感情が抑えられなかった長男は
それまで工作に使っていた自分のハサミを振り上げたという。
そこまでになるほどの怒りだったの?
そうまでしなければいけなかったの?
簡単には収まる気配も感じないくらいの狂気だったのかもしれない。

それに応える担任の、それは単に暴力とも違う。
危害を与えるおそれのある児童を制止する行為であり、
安全の確保ともいえる行動だから、別に悪いことではない。

直後は大変興奮しているため聞く耳を持たない長男も、
後に落ち着いてから話をすると
「いや~、ひさしぶりにねじ伏せられたよ~」
と、不思議と他人事のような感想…。

そうだよね~2年生のときもあったよね~
あれは確か…
と、思い出話に浸り、親子で笑い会う。
今となっては笑いばなしになってるんだ。

とは言え、小学生が学校で教師に”ねじ伏せられる”ということは
いいことじゃないし、ましてや武勇伝とされても困る。

「普通じゃあり得ないことなんだよ」
「そもそもあなたの言動がよろしくなかったんでしょ?」
と母親が言ったところで、もう息子の心は別の方向へ行ってしまっている。
ASDあるあるとでも言うといいのか(涙)

今まで叱責されていて「うんうん」と話を聞いていた、だけども、
数秒後には自分の好きなことや興味が頭の中を占領しているから不思議。

これはある意味、
発達障害の「気持ちの切替えができない」といわれている特性も
実際のところは、気持ちの切替えが早すぎる、と言ってもいいのではないか。

とはいえ、
これは新学期が始まって新たに表れたということではないんだけど。

長男がねじ伏せられたのもそれからもう一回あって、
次男もなんかテンションが上がって行き過ぎた行動になってしまったりと
なんやかんやいろいろ毎日こまごまありまして、
その都度、新担任から連絡が来る。
学校からの電話、というより、担任からの電話が来る。というのも、

今までだったら職員室から電話が来るから
スマホの着信表示が「○○小学校」だったのが
先生の個人スマホからの着信なわけで、
どんな緊急かと思えば、
「大した用ではございません」とか「悪い内容ではございません」から始まるお話。

最初に電話の趣旨、というか
「今回のめあて」的なところから始まる電話は
母としても新しい感覚のため、
いつもだったら潜在的に感じる「…悪いお知らせかも?」を
すぐに払拭してくれるのは嬉しいところ。

それと同時に
「この先生、保護者への電話、慣れてるな…」
と感じることも少なくない。

保護者への電話が慣れている、ということはそれだけ
担任した児童との関係も多いということで、
たくさんの知識と経験と分析力で
子どもたちの行動に対してふんだんにご説明くださるから
母親としても、先生と話していてとても学びになる。

わが家の発達凸凹の息子たち、普段の何気ない会話は問題ない。
大げさに言えば、大人と話しているような感覚もある。
だけどもそれでいて小学生が当たり前にできることができない、なんて
できる・できないの振り幅が大きくて
まさに発達の凸凹が著しいなあ、と実感する。

そんなところも新担任の見立てとなれば
「言葉にできない子どもたちの言葉にならない行動」が
言語化される。

それを聞いた子どもたちも
「俺たちの”言葉にならない気持ち”ってこう伝えればよかったんだ」
と、いつか気づいてくれる日が来てくれるのだろう。
そんな風に願うことも多くなってきた。

とは言ってもだ。そんな学びの多い先生とて
さすがに電話の頻度は多く、
夫が言う「そんなことで電話してくる??」状態。

あー、いえいえ、
母親としては、目に見えない子どもたちの学校での様子を
逐一報告してくださることは本当はありがたいこと。
たいていはおとなしく過ごしてる小学生、それなのに突如として
狂気に満ちた危険BOYに変身してしまう息子たちの現況報告だから。

そんな担任の先生も
「お母さんがご心配かと思いまして」と仰るので
特に心配してなかった日であっても
「お電話いただいて安心しました」と社交辞令で返す。
社交辞令は失礼かww

先生とのコミュニケーションツールとしての電話、
そろそろ鬱陶しく感じてきた、のは内心否定できない。
だがしかし、母としても学びになっているのは間違いないし、
子どもたちへのより良い教育のための双方の情報共有ってのは
一番大事なところだから、ないがしろにできないもの。

母も子どもたちと同様に
新しい日々に実はひそかに奮闘している。
気持ちの浮き沈みが激しい子どもたちよりは
大人の方がはるかに鈍感を装って生きていられる、のかもしれない。
そうは言っても、大人だって詰まるときもあるんだけど。

いや、先生だってきっとそうなんだ。
いろいろ気を遣ってくださっている。
鬱陶しいなんて言ってられない。
先生の戦略なのかもしれないけど。知らんけど。

ねじ伏せられて歯が立たなかった長男も
感情の起伏が激しい次男も
どれも一つひとつが学びとなり、心の成長へつながっている。

新しい日々をこなすには一苦労がある発達凸凹くんたち。
子どもたちと一緒に受け入れて共に成長していく毎日であるのは確か。
お母さんも先生も、同じ環境に生きるものとして
一緒の「新しい日々」であることには変わりない。
なんか、「今を生きてる~」ってしみじみ感じる。

言葉にならない気持ちや行動を言語していただいて
息子たちの深層心理を知ることができると
私生活でも活用できてくる。そして、
子どもたちに対しても寛容になれる気がしてくる。

そう考えてみると、
新しい日常っていうのは
時には必要なアイテム。

新しい何かを発見できたり、
新しい感情にも出会えるから
大きく不安に感じなくても大丈夫、って思える。
むしろ、新しいことを楽しむのもいい。
子どもたちと一緒に楽しむくらいの余裕があるともっといい。

今日もそろそろ担任の先生から電話が来る頃かな?
「今のところ問題はありません」
という報告を楽しみに待つとしよう^^

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