君だけを待つ猫がきっとどこかにいる。There must be a cat somewhere waiting only for you.

私はもうすぐ58歳になる。これを読む君が何歳なのかは私は知らない。参考になるのかどうかも私は知らない。それでも最初で最後のつもりとしてnoteに記す。私もいじめられた過去があり今でも地元には帰りたくない。いじめは50年後の私をも支配しているのかもしれない。たとえば潜在意識みたいに。私をいじめた連中の名を私は今でも覚えている。この歳になっても覚えている。でも怨念は生きる力にはならない。では生きる力はどこから生まれるのか。私はこの歳になってもわからない。ときどき死にたくもなる。それでも今は生きなければならないと思っている。なぜか。私には飼っている猫がいる。この猫は私の都合でその命を私に預けた。その命に対する責任がある。その猫は10歳だ。あと少なくとも5年は生きるだろう。あと少なくても10年は生きてほしい。つまり私はこの猫よりも長く生きなければならない。妻に対する責任よりも猫に対する責任の方が重い。なぜならは妻は私と離婚することができるが猫はそうはいかない。生きる力は自分以外の命から生まれる。かもしれない。たとえば朝顔のために。猫のために。友のために。自分の命なら軽く思えて自死してしまいそうでも自分の命が誰かの命と直結なら躊躇する。たとえば君の命は友の命である。私の命が猫の命と直結するように。死んだほうが楽かもしれない。生きる方が苦しいかもしれない。私にとっては君のその苦しみは他人事ではない。私は過去にビルの屋上や遮断機の下りた踏切で命を見つめたことがあるからだ。それでも君だけを待つ猫はいる。必ずどこかにいる。耳を澄ませば君にはその鳴き声が聞こえる。君だけを呼んでいる命の声だ。その猫を飼おう。そして生かすことで生きていこう。生きていればいいことがあるなんて私は口が裂けても言わない。それでも人生は生きるに値する。どんな人生でも。老師の言葉をメモしろ。「生きる意味より死なない工夫」。

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