炎天下に墓参り。Visit the grave under the scorching sun.

 先ほど、義理の父の墓参りから帰ってきました。義理の父は無縁仏になった人なので、**家之墓とか没年月日とかが彫り込んであるような個人(故人?)的な墓があるわけではありません(もちろん戒名もありません)。実に、シンプルで、いい感じです。
 私は生きているときの義理の父に会ったこともなければ、声も聞いたことがありません。写真を見たのも亡くなったあとでした。無縁仏になる人生について、いつか書いてみたいと思っていますが、今はまだ書けません。
 以前、豪雨の中で、義理の父の墓参りをしたことを記事に書きました。今回は炎天下でした。それでも、お参りする人はいました(お盆期間ということもあるから?)。さすがに無縁仏をお参りする人はいませんでした。以前と同じように、また何かが確実に私に伝わってきました。それが私の中に染み込んで、芽が出て、花が咲き、実を結ぶのは、もう少し先のようです。
 前回の墓参りに関する記事でも書いたことですが、私にとって墓参りは、故人のためと言うよりは生きている人のためにある、と今回も感じました。

追伸

 私が20代前半、まだ大学生をしながら広告会社でコピーライターとして勤めていた頃のことです。星野さんという上司が、私を親身に育ててくれました(星野さんについても、過去に記事を書いています)。星野さんは2014年1月に突然亡くなりました。そのお墓があるお寺が、義理の父の公営墓地の近くにあります。ついでと言っては何ですが、そちらも墓参りさせていただきました。星野さんのことを思い出すと、若い頃の自分のことを同時に思い出します。若い頃あれほど頑張っていた自分が、今の、この無職の自分を見たら何て言うのかな? うーん……。
 今回私は、職安と図書館以外で、久々に世の中に出かけました。引きこもりではないですが、無職なので日常的に行く場所がありません。私鉄や地下鉄に乗ると、猛暑に負けずに働く人をたくさん見ました。「彼らは社会に必要とされている、社会に貢献している人たちだ」と羨ましくなりました。私は無職になって、すでに5カ月です(春から夏へ)。これまでの私のキャリアを生かせるような仕事にも出会えないままです。最近は、これまでのキャリアを生かすとか、それなりの給料とか、そういう望みもすべて捨てました。すると今度は「一体自分に何ができるのだろうという?」という根源的な問いにぶつかります。二十代前半なら、その問いは「可能性」と同義語でしょう。五十代後半では、この問いの答えは? 私は自分に同情も絶望もしていません。そういう私を必要とする誰かと出会えることを信じています。願わくは、秋に私が一つ年を取る前に出会いたいものです。

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