芸術をやるべき

とある人が言っていた。

『人類全員なにか芸術をやるべきだ。
それで収入が得られたら効率がいいけど、お金にならなくてもいいから何かやるほうがいい。』

心に刺さった。

人間誰でも積もるものがある。それはストレスだったり、些細な気付きだったり、好意だったりする。
社会の中でバランスを保つために、吐き出せないその小さな感情のかけら。
これに形を与えて表現するのが芸術だと思う。

芸術の逆は、空気を読んで人が気持ちよくなるであろうことを予測して、これに形を与えて表現することだと思う。
勿論、これは悪いことではない。
社会生活はこれの積み重ねだ。

商売はこの芸術の逆をお客様に対して提供するものと思われがちだ。
多くの人が欲しがりそうな商品を提供することが商売の正攻法だろう。
これも勿論悪い事ではない。

社会に適応するのは大事なことだ。
誰しも守るべきものがある。
家族。
友達。
恋人。
ご先祖様と言う人もいるかもしれない。
生活は、大事。


しかし、私はどうもすっきりしないのだ。

このベターを追求し、どうにか社会に存在させてもらうために自分の心を押し殺すことを求められる社会に納得すべきなのだろうか?
納得せよと強要する社会で、なにも語らず、自己責任を果たすためだけに生きていくべきなのだろうか?

欲望を煽り、劣等感を煽り、幸福のモデルを徹底的に植え付けて消費を煽るビジネスだらけだ。
より上手くお客様を騙せるビジネスをやっている人間が成功者として憧れられ、その憧れから同じような手法でビジネスをやる人間が増えていき、負のスパイラルは止まらなくなっている。

空気を読んで棘も心も無い言葉を話し、人間関係の歯車に徹する人は日々の小さな感情のかけらを押し殺しながら生きる。
そのかけらは積もり、固まり、強固になり、やがて大きな岩となる。
その岩はいずれ自分を、或いは自分以外をも押し潰してしまうかもしれない。

だからこそ、誰もが芸術をやるべきだと、私も思う。

なんでもいい。絵を描くのでも、音楽でも、料理でも、noteに文章を書くのでもいい。

自分を押し潰しかねないその岩は、実は人間ひとりひとりの創造の源泉なのだ。
その芸術は何も生まないかもしれない。
それでも、もしかしたら表現者自身を救うことはできるのかもしれない。

現代社会はひとりひとりが感情を押し殺し、身内に忖度し、他者と身内を差別する競争社会だと思う。
負け組にならないために利にならないものは以外は排除する社会。

それとは逆に、ひとりひとりが芸術で自分の感情のかけらをアウトプットして、その表現をリスペクトしあう社会を目指すべきだと思う。勝ち負けじゃなくて、共生する社会。

どこまでも冷酷な現代社会に抗うには、ここから始めるしかないのではないだろうか。









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