ホンモノとニセモノの境界、文脈なき情報の断片が人を幸せにするか?

この写真自体も「コラだ」といってる人をsnsでみかけたけど、もはやほんとに優れた報道写真とコラやAI生成画像の境目がよくわからなくなって、「リアル≠真実」という実はずっとそうであったはずだが、なんとなくリアルは信じられるとテキトーに処理してきたツケが回ってきた感がある。
リアルの一部を切り取ったものを恣意的にみせることの欺瞞と、偽写真との間に横たわっていた善悪の曖昧さみたいなものが、だんだん埋まってきて、けっきょく「客観的真実ってなんだ?」ということをみんなが認識しだす。

言葉にしても、メディアや個人が恣意的に切り取ることで、なんらかの悪意や「正義感」を以て、人物や物事の本質とはかけ離れた印象操作を目的としたツールにされるということは、もはやネットのどこを見ても蔓延している。
言葉にしろ映像にしろ、その文脈やバックグラウンド、対象との関係性を度外視して切り取られた瞬間から、もはやそれは第三者による二次創作に過ぎないという当たり前のことを人々は無意識か意図的にか、考えないようにし続けたことで、断片的な情報に条件反射的に反応し、自説に都合のいいキャプションを与えるといったことを、延々と繰り返しているだけのようにみえる。

極めて単純なAIよろしく、ある種のワードに対して、「陰謀論だ」とか「差別だ」みたいな表明がその典型で、その「お気持ち」のネット民による共有にはほとんど社会的な意義はない(イーロン・マスクやヤフーニュースの経済的メリットを除けば)。

人間は自分で考えてるようで、じつはたんに本人が関心を持つインプットに対して反射的に慣れ親しんだ思考(というか反応)スイッチを点火させてるだけなんだということに、悲しいかな自分ではなかなか気づくことができない、
写真やネット上情報が「現実」かフェイクかがどんどん判別できなくなることで、かえってそのことへの自覚が一部の人たちの中に芽生えるいっぽう、大多数の人々にとっては、ますますインプットのネタ(フェイクであれ何であれ彼らはあまり問題にしない)は増え続けるわけで、一日のうちの膨大な時間をそうした無意味なフィードバックに費やし、snsに撒き散らし、その無限条件反射ルーティーンを増幅させていく。
そういう「同じフィードバック回路」を持つもの同士が疑似「お友だち」となり、なんとなくお仲間コミュニティを形成していく。

関係性や文脈を共有せず、互いに対する責任も負わないし、いざというとき自分を守ってくれるわけでもないコミュニティの一員であることの意味とはなんだろう?

最近宮台真司とか東浩紀なんかがいってるような、わりと泥臭いコミュニティ論だったり、個人の選択的意思によって構成される集団のほうが、好むと好まざるとに関わらず所属を強いられる「家族」「地域」みたいな押し付けがましい繋がりより果たしてマシなのか?みたいな議論とも繋がってくる。
個人の選択的決定など所詮、さっきいったようなネット上の無意味なフィードバックの結果みたいなものに過ぎないんではないか?

現時点では、ネット情報の真偽を見定められるかどうかは、リテラシーの問題だ(ドヤ)といってられるかもしれんが、おそらく10年もしないうちに、情報の断片だけをみてなにかしらの真実性について判別することは誰にもできなくなるだろう。

ほとんどの人々は、情報の真実性を頼りに自己決定し、選択的に「正しい」行動をしたり、協調すべき他者と最善のコミュニティを形成することなどできなくなる気がする。

そうなった世界で、なにを信じて誰と共に人生を分かち合うのか。
時間をかけた関係性の強化、ストーリーの共有の積み重ねによるコミュニティ内での交換不可能な存在価値の自負…、つまるところそんな昭和っぽいベタなところに、私のような昭和おじさんはたどり着くわけです。

以上、最近の都知事選とかこのトランプ氏の写真をみての感想でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?