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【ワークショップ感想】日野晃氏のワークショップ


それにしても何というセミナーだったのだろうか。2月5日終日、日野晃氏のワークショップに参加してきた。ここ数年色々なワークショップへ行き身体操作を学んできた。このセミナーで知ったのは「本当に大切な事は言語化できないものだ」という事だ。頭で解っている事と身体でわかる事は天と地程の違いがある。

言語化するのは愚かと知りながらも今この瞬間の思いと書きとめておかなければならないと記事にしようとしている。

日野晃という人間国宝級の武道の人をぼんやりと伝え聞いたり、存在は知っていた。だが日野輝さんは知り合いの身体操作関連の人とも全く接点がないのでSNS広告で上がってきて激しく興味をそそられたにも関わらず行くのをかなり躊躇った。とんでもなく厳しいことを言われたらどうしよう、場違いだったらどうしよう。何せ自分はまだ病み上がりなのだ。だがそれでも後押ししてくれたのは過去の自分の行動力と病気だ。来週検査でもし具合が悪ければ即入院だ。そうするとこのワークショップを永遠に受けられる機会を逸するという可能性もある。日野晃さんは75歳なのだ。本物に出会うチャンスを逸してはならない。

最初の時間まず質問がないか関西弁で笑顔で投げてくれる日野先生。それにしてもざっくばらんな雰囲気を作る人だ。彼の一挙一動で会場の空気が大きくそして柔らかく動く。セミナーが始まり衝撃を受けたのは最初のワークだった。身体全体を使って背骨を伸び上がり単純に下に手を落とすというワーク。それがペアワークとなり手を落とすという動作になった途端、相手の手を押すというスイッチが入ってしまうのだ。

武道では相手の力と対立構造を生まない事が前提で別のベクトルに持っていくその時に相手を抵抗なく引っ張っていくという事(誘導する)という事が大切となる。そこに引っ張っていくという意識そしてそれに反発するという相手の意識が生まれればそこにさらに対立構造を生み出すになる。

日野先生の表現を借りれば「ぶつかるのはOK。ただぶつかったという事をちゃんと意識する事とそこに対立構造を生まない事。そこから瞬間的にどんな方向転換ができるか身体で考える事」。

言葉では簡単に説明が成り立ち頭ではわかる。だが上記のこんな簡単なワークですら至難の技である、という事に衝撃を自分自身で覚えた。

思えばこれは人間関係にも言えるのではないかと今改めて思う。人間生きているとぶつかり合う事はある。だがぶつかり合った時どうするか。その時に感情を押し殺してぶつかりあった事を無かった事にするか、感情を剥き出しにして強引に自我を押し通すかどちらかを取る人が多いように思える。とりわけ日本社会は前者であるパターンが多い。だが第3の道が確かに存在する。存在する、そこを目指したい、でも今はそれを出来ていない。それが解っただけでもこのワークショップに行った甲斐があるというものだ。

日野先生は最初に多くを語らない。見せてすぐ「やれ!」と仰られ、皆があ〜でもないこ〜でもないとわちゃわちゃやり始め、少し皆んなが行きづまりが見えた絶妙なタイミングを雰囲気で感じ取られ、ヒントを教えてくれる。「出来ないことを言語化したらあかん。出来てからそれがどういう動きなのか解析していくのはOKやけどな。」「出来ないのは最初から完璧な成功を目指すからや。最初の1mm扉をこじ開ける、その姿勢や。」

そして日野先生は時折ボソッと今の私だから刺さる言葉を幾つか吐かれる。特に印象に残ったのは「肉体は感情の入れ物。感情が大切で健康は大事な訳ではない」と仰られた事だ。これは何となく今の自分に響いた。「健康が何よりも大事」というのは健全者が病気の人を見て言っているに過ぎない。大病をしてわかる事。それは肉体の健康が何よりも大切だというのは嘘だという事だ。体は動かなくなって私は生身のドクドクと動いている感情を凄く感じることが出来た。なまじ健康で身体が動くからこそ感覚・感情を萎えがしろにしてしまうのだ。

他にも色々な事を仰られた。備忘録として以下に記しておく。
「我々は違和感を与え合って生きている。つまり気持ち悪いのである。今の時代気持ち悪いと伝える事自体イジメになる。だから現在そういう事を言ってくれる人はいない。だけど違和感を与えていないかを考え続ける必要や配慮は常に必要」
「日本人は感情を抑えすぎる傾向にある。相手が観れない、感じれない。または逆も然りだが単純にそれはエネルギー不足。感情やエネルギーが存在しないのに頭(知性)だけ働かせて少ないエネルギーをさらにコントロールしようとしている」

最後のワークは「おじいさんの古時計」という誰もが知っている歌を二人で向かい合い二人で合唱するというワークだった。だがこれが難しい。普通で唄うと一人で歌っているようになる。かと言って歌なので相手にがなりたてるように唄うのも違う。日野先生が上手な生徒さんと唄われているのを見ると二人が空気を包み込むような一体感がある。何かが違う。聴こうとしてないのか、相手へのぶつけるエネルギーが不足しているのか。

私の唄う姿を見て日野先生は噴き出される。
「なんで軍隊みたいな歌い方するんや」「お前は護衛官か」その言い方が可笑しくてみんなで笑い転げる。恐らく不器用で感情表現が苦手な私を見て日野先生は滑稽でしょうがなかったのだろう。しばらくしてあ〜でもないこ〜でもないとディスカッションしている我々の元に戻ってきて「でもなお前、いきな上手くいくなんてそんな事は中々難しい。今悩んどるやろ。そうやって悩むってことが大切なんやで」と仰られた。

相手を聴く事に集中するとどうしても相手に伝えようとするエネルギーが疎かになる、どうしたら良いのだろうと横にいたずっとジャッジの係をしてくれた女性に聞いて見ると「聴く事と伝えるって事。同じやと思う。二人で一つのものを作ろうとしているのだから同じやねんで」と仰った事が印象に残っている。この女性の方は何回もワークショップを受けているらしく恐らく自分の理解よりも深い。いつもだったら「?」と思うところを会場の空気感なのか、そんなものかもしれないとぼんやりと受け入れる気持ちにもなっていた。

日野先生の奥さん、この方もとてもチャーミングな人なのだが、も我々のそばにきて「べやっちさんはもっと相手の内臓まで届けるようなエネルギーを出していかんといかん。今は相手の皮膚表面しかエネルギーが届いていない」と言って下さった。そうだよな〜病気になって感情の大切さは解ったものの、それでも相手に届けるエネルギーは不足しているんやなと頭では理解できるものの実行は本当に何度やっても難しい。

そんなこんなしている内にあっという間に時間が経って終了になった。とても頭がクタクタになりその後遺症を2日程引きずった。でもその参加者の人と出来ない事をあ〜でもないこ〜でもないと言い合っている時間の何と豊かな事だっただろう。来年もこのワークショップは開催されるのだろうか。開催されるならもう少し進化、深化した自分で参加していたいと思うのであった。


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