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甘っちょろい僕から、世界へ

尊敬している友人が以前こんなことを言っていた。
「嫌なことをされたとき、人に謝ってほしくない。許す/許されるという行為が発生した瞬間、その人間関係は対等ではなくなってしまう」

その時、僕はその意見に大いに賛同した。
ストリート育ちの友人は、自分の身は自分で守る、甘ったれたこと言ってんじゃねえと日ごろから口にしていた。仲間が傷つけられたときは徹底的に戦う人情深い奴。

僕はそうじゃない。生ぬるい守られた環境で生きてきた。だから僕は人を許す。正論は時に暴力になるということを知らなかった僕は、たくさん人を傷つけてきた。
「言ってることは分かるけど、言い方が良くない」
と人生で何度言われたことか。そのたびに言ってることが間違ってないなら何でも良いだろと思っていた、人の気持ちを考えない人間だった。
人を傷つけるたびに「これは人を傷つける行為なんだ」と学んだ。
知らなかった存在を知るようになった。
人は、誰も傷つけずに生きていくということができない。これは暴論でもなんでもなく、事実だと思う。そこには必ずしも悪意があるわけではない。人は無知ゆえに人を傷つけることがある。

先日、とある友人の発言に傷つき、ふさぎこんでいた。
見かねた恋人はその友人に発言を撤回するよう求めた。
僕は、恋人という大切な人間が、僕の為に誰かの敵になることをいとわないと知り、涙が出るほどうれしかった。
友人は後日、軽率な発言だったと謝罪してくれた。
僕は、間違いを認め自分の発言をわるいと思う友人の強さが嬉しかった。

僕は、生ぬるく甘っちょろいから
「人を傷つけずに生きていくのは難しいから、一緒に勉強していこう」
と言った。

誰かが人を傷つける回数が減るのなら、そのきっかけを作れるのなら、ひとつ学ぶことがあるのなら、僕は今後も人を許していくだろう。

謝罪の機会を与えてもらえないということがどんだけつらい事か僕には分かるから。もちろん、人を許さないということも一つの自分を守るための武器だということも分かる。だから僕は「人を許せ」とあなたを諭すことは絶対にないと断言する。

みんながそれぞれ自分の尊厳を守りながら、誰かの尊厳をなるべく傷つけずにいられるようになるのがベターだ。

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