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お笑いを批評すること

芸人のネタが炎上するたびに僕は辟易としてしまう。
勿論、その芸人の人権意識というか、よくわからないものに対しての認識が低いままやっちゃってんだな、みたいながっかり感もある。
それと同時に、ネタの倫理観への批判もどこか的外れなものが多いように感じることも多いのだ。

僕は二十年近くお笑いが好きではあるが、批評家として『お笑いの見方』マニュアルを提出したいなどと思っているわけではない。
ただの批評好きであることをご了承されたし。

常々疑問に思っていることがある。
文学、美術、音楽、写真、映画、などあらゆる芸術には理論がある。それを全く知らない人間は批評のステージに立てないような風潮がある。その水準は作家に求める以上であるというのが僕個人の観測だ。
芸術ほどその価値を認められていないようなサブカルチャーやカウンターカルチャーもそのうちである。それぞれの文脈があり、理論がある。それを知ったうえで無視することと知らずに批評することは天と地ほどの差があると思う。

お笑いはそこをまるっと無視されている。作家であるところの芸人がそこをセンスだ感覚だというのは勝手だが、批評家はそれではいけない。人が作ったものをジャッジする責任というものがあるのだから。
「笑い」という感情の現象についての研究は古代より盛んにおこなわれている。哲学だけでも、アリストテレスにはじまり、ショーペンハウアーやベルクソンなどが有名だ。
生物学はまったくの門外漢だが、幼児のほほえみと笑いの違いについてや笑いとは知能の高い生き物である証だ、といったようなものは少し読んだことがある。
笑い学会なるものも存在するし、僕は孤独なお笑い批評家であるなんてセンチメンタルになるほど、笑いに関して言えば学問として体系化されていないわけではないのだ。
ベケットのような喜劇、チャップリンやキートンのようなコメディ映画、落語に狂言、そういったものは批評の領域で語られているものは散見する。

それが漫才、コントとなるとその数が急激に少なくなる。歴史は映画なんかとさほど変わらないだろうし、アニメーションより長く庶民と関わっているといっても過言ではないと思う。

今回問題となったのはR-1グランプリ2024決勝の吉住によるコントだ。
吉住がデモ帰りに恋人の家に結婚の申し込みをおこなう流れで、目がバキバキの吉住は「話が通じない危ない人間」そのものといった感じだ。
「デモは暴力的であるという偏見を生みかねない」「強きを批判している人を嘲笑するな」「冷笑主義的」といった批判が生まれた。
その意見ひとつひとつはもっともである。

僕は自分の社会的立場も相まって弱者について学んでいる。学びにおいてそこを一番重要視している。フェミニズム、クィア論、貧困層や在日外国人、韓国の歴史やポストコロニアル、パレスチナ問題……まだまだ浅学ではあるが、自分の感情(無意識の固定概念)を常に思い返し、その感情がどこから来ているのか注意深く向き合っているつもりだ。
デモ自体には参加したことはないし、参加するつもりのないが、これは「集団の一員になりたくない」という個人的な理念から来るものでデモが嫌いだからではない。
声の小さな市民は、その数を増やすことでことの重大性を訴えるしかない。故にデモは効果的に政府などの権力者に声を届けることができる。最近だと、世界中でパレスチナに連帯するデモがおこなわれている。参加しないだけで関心がないわけではないので、その情報はできる限り追っているつもりだ。それでもすべては追えないので不十分ではあるが。
苦しんでいるだれかにあなたはひとりではないと伝えられる力もある。

僕はデモが過激でもなければ血が流れるものでもなく(そういう場合もあるだろうが)気に食わない意見をなにがなんでも排除したい集団ではないことを知っている。
だから吉住のコントを心から笑えた。こんなやばい奴なかなかいないもん。見たことないもん。だからその馬鹿らしさが分かる。

吉住のコントをよく見ていれば、吉住が茶化したいのはデモをおこなう人間でもそれを怖がる人間でもなく、吉住が演じたあの女性ただひとりであることが分かる。と僕は思う。
一度しか見ていないのでたしかなことは言えないが、強きを批判したい市民としてあの女性は正しいことを一言も言っていないはずだ。
前述したような目的ではなく、喧嘩がしたいその一心でデモをおこなう。そこに信念などなく、ただ暴力的な争いがしたいだけなのだ。
結婚を反対する恋人の両親に対して発する言葉にそれが良く表れている。
「こんなこと言いたくないんですけど、大丈夫ですか?……私を敵にまわして」
僕は「大丈夫ですか?」のあとに「そんな意識だったら日本は駄目になる」とかデモを怖がる人間の意識の低さを揶揄するのだろうかと思った。
しかし吉住が放ったのは、自分の考えを押し通すには手段を選ばない人間であることを主張するものだ。
徹底してそういう人間であり続けた。ここで僕が考えたようなことを言うと、正しさが垣間見えてしまう。まっとうであるように感じてしまう。それでは駄目だ。そうなると実在するデモをおこなう人間を揶揄することになる。
徹底的に誇張し続け、フィクションをすべてでアピールする。この手法は、今大会で優勝した街裏ぴんくにも通ずるかもしれない。一度も我々と同じ世界を共有しない不条理的な笑い。

防犯教室に来たやばい大人を演じたサツマカワRPG、プールで石川啄木に出会ったことを「嘘じゃないです!こんな嘘つく奴頭おかしいじゃないですか!」と叫ぶ街裏ぴんく、そしてファイナルステージで彼氏の職場で職権乱用する鑑識を演じた吉住、それらすべては明らかに虚構であり、防犯教室の人や鑑識を嘲笑する意図はない。

ただマイノリティを取り扱ううえでマジョリティと同じではいけない。ステレオタイプを生み出す可能性があるからだ。可視化されにくい者のイメージが先行すると実在するマイノリティたちがそのイメージと異なることで受けるマイクロアグレッションのつらさを生み出す羽目になる。
たとえば、ゲイはオネエ言葉を話すとか、トランス女性はすぐに分かるほど男性的であるとか、フェミニストはヒステリックであるとか、黒人は犯罪者が多いから怖いとか。
だからオネエ言葉を話さないゲイだったり女性が演じるトランス女性が必要だったりする。

では今回の吉住のコントはどうだろう。
以前、ドラマ相棒でヒステリックなデモ活動者が描かれ問題になったことがある。それと同様に今回のコントを語るのはまるっきり文法が違うと僕は思う。ヒステリックなデモ活動者をまじめなミステリードラマでまじめに対応する警察の視点から描くのと、血気盛んなデモ女を笑う目的で描くコントは違うことは明白だが、この「笑い」の種類は不調和から生まれる笑いだと解釈した。ショーペンハウアーの定義するところの「不調和の理論」である。
実在する(もしくは知っている)デモと吉住が演じる女性のズレから生まれる笑いだ。

そう解釈したのは僕だけではないだろう。これが多数派かどうかは分からないが、多数派であると信じたいところではある。
むしろ、デモを揶揄しているのはこのコントを見て「やっぱりデモやってるやつってやばいなあ(笑)」と言ってみたり、このコントを批判する人々に対して「本物があぶり出された(笑)」「お前みたいな奴のこと言ってんだよ(笑)」などとぬかす輩たちのほうだ。デモがこんなものだって信じているなんて、なんとまあ世間知らずなんでしょう。と言ってやれば良いのだと思う。恥をかくことで人は学んでいくのだから、教えてさしあげなさいと思う。

世の中には悲しいことに弱者を嘲笑するお笑いは存在するし、これからも生み出されるだろう。僕はちゃんとそれらを批判していくと同時に、その芸人らにたいして笑いをなめるなと言うだろう。
僕を幾度となく救ってくれたお笑いをきちんと見られるように僕はこれからも勉強を続けると思う。
先人の批評家たちがあらゆる芸術にそうしてきたように、僕は笑いをリスペクトし、その力を畏怖し、批評していくことだろう。

だから、僕よりずっと哲学だったり社会学だったりあらゆる弱者についての知識があり、僕よりずっと深い思想を持つ多くの学問に携わる方々に対して、浅学菲才ながらお願いしたい。

もう少し、お笑いについて知ってみませんか。芸術にそうしてきたように、寄り添って批評していきませんか。
ただの感想で終わらせず、ひとつの訴えとして届けるためにも、笑いから倫理や人権意識を取り上げたくはないし、お笑いを拒否してほしくはないのです。
人権意識を持った芸人はいることを僕は知っているし、お笑いの感覚と理論の懸け橋になろうとしている芸人がいることも知っている。男性社会に迎合しないように努めている芸人も、笑わせることで救われた芸人も知っている。
だからこそ、分断を招きたくはない。マイノリティのゲットーに閉じこもり続けるのはやめたい。いつかは飛び出さないといけないから。

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