愚かになることなかれ
近頃のインターネットを見ていると、うれしい情報1割、かなしい情報9割といった感じである。
そんな世の中を憂うほど僕はうぬぼれていないのでなんとなくうれしくなったりかなしくなったりしながら日々を何とか生き延びているだけだ。
僕は、人は怠惰であっても良くて、人は好きなように生きても良くて、迷惑をかけても良くて、怒っても悲しくなっても喜んでも嬉しくなっても良いと思っている。好きなように、好きなだけ生きよう。人間たるもの。これが僕の人間観である。与えられた環境で生きるもよし、嘆くもよし、抗うもよし。すべての人間よ、人間たれ。と思う。
そんなよく言えば寛大、悪く言えば無関心な僕の人間観だが、唯一許せなく、批判したくなるものがあることに最近気づいた。
気づくきっかけは何度もあったように思うが、無意識に気づくのを避けていたようだ。
僕のようなしょうもない人間はせめて誰も責めないことで見かけだけの善悪のバランスをとってやろうという小賢しい算段が崩れてしまうことを恐れたのだと自己解釈する。
先日、とある著名人がゲイをカムアウトした。大変、うれしい事である。
カムアウトが話題になれば、カムアウトを悪い風に捉える意見も現れる。
僕が見かけたのは、(おそらく)オープンリーゲイの男性が「カミングアウトを勝手にしといてアウティングをするな。それは差別だ、なんて図々しい話」みたいなことを呟いていたものだ。
一瞬ひるんだ。障がい者施設でアウティングの経験がある僕には他人事ではないように感じる。ただ、すぐにいやいや、と立ち止まった。
秘密を共有する。ということはそんなに難しい事だろうか。
誰かがLGBTであることを、そんなに他人に話したくなるものだろうか。
よほど、人様のうわさ話に興味がおありなのだと見受ける。
社会人経験もなく、責任もなく、空気が読めない発達障害の僕でも、秘密を守ることが社会人たるもの、いや人間関係においてどれほど大切なものかは分かるつもりだ。
この言説は、「秘密を守る」ことはできないが、それを責められると吠えたい自分の後ろめたさを「カミングアウト」する方が悪いと責任転嫁しているだけだ。なんと愚かな。
人は、自分のしている言動に自覚的でなければ、必ず人を傷つける。だから思考せねばならない。自分の罪と向き合って生きていかねばならない。責任転嫁する者には、金属バットを持った少年が現れるのだ。
人は自由に選択する権利があり、自由に生きていく権利があり、怠惰になる権利はあるが、愚かでいて良い権利はない。これが僕のシン人間観である。
人は皆、違う。その中で対立したり連帯したり孤立したり、好きな位置につくためには愚かになってはいけない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?