僕らが本気で編むときは、感想文
生田斗真がトランスジェンダーの女性を演じた映画「僕らが本気で編むときは、」を観た。読んで気持ちの良い感想では無いのでこの映画を好きだなと思った人は読まないほうが良いです。
あらすじ
主人公の少女は人生で何度目かの育児放棄となり、叔父の家へ尋ねるも、彼はトランスジェンダーの女性と同棲しており3人の共同生活が始まるという話。
感想
後味の悪い話なんだけど、そこに対してどうこう思うよりも、監督(脚本も手がけている)の、ふわっと人に寄り添うみたいな雰囲気を醸し出してる割に人を描きたくて映像を撮ってるんじゃないんだな〜と分かるところが嫌だった。
例えばトランスジェンダーのリンコと叔父のマキオが共同生活をするに至ったまでの道のりや、性的少数者の同級生カイとそれを取り巻く彼ら・彼女らへの視線と思いを巧妙に挟んではいるんだけど、挟まれるごとに上滑りしていくというか、トランスジェンダーとはこういうものなんです、今、彼ら彼女らはこんな状況にいるんです_という紹介に映画の大半を使ってる割に、キャラクターの人となりが一切見えてこない。すべての登場人物が社会的属性の象徴みたいな存在。いつ作られたのか確認したら2017年と出た。2017年でこの感じか〜。
桐谷健太以外の役者はプロなので巧みに演じているし、その場の感情の流れみたいなのは伝わってくるが、人間らしさは一切ないんだよな。なんというかそれぞれの経験に基づいた思想や信念がほとんど見えない。劇中わかりやすく伝えてくる登場人物の価値観は性的マイノリティへの嫌悪感と無理解くらいだろうか。そういう話を進めるための題材としてのみ機能する状態を私はマイノリティを消費していると認識してしまうんだけども。
モチーフとして面白いシーンはある。
状況が行き詰まった時やうっぷんを晴らすための心の拠り所として、編み物でカラフルなちんぽを沢山つくるというのは文字にしても画で見ても面白いし、カラフルなちんぽを3人で編んだり投げ合ったりするシーンはちんぽなのにやたら美しくてそのギャップが面白かった。ちなみに108本のカラフルなちんぽは浜辺で燃やされる。ちんぽのお焚き上げってなんだよ。
ただ、なにか嫌な目にあった時、押し黙って我慢しろ、編み物をすることで忘れられる、というメッセージは本当にいただけない。昭和すぎる。トランスジェンダーの人が簡単に声を上げられない状況や、家族でさえも味方になりえない状況を描いていて尚このメッセージを打ち出す所に、私がこの監督の作品に感じている嫌なところが現れている。
スカッとする話コピペ並みに勧善懲悪にしろとは言わないけど、立ち向かおうとする意思や葛藤、くじけてしまう弱さを描けよ!そういうのを一切省いて進めるから嘘くさいんだよ。トランスジェンダーを辛い目に会いながらも強く生きる物言わぬ被害者としてのみ描くのは浅はかだしその人達の人となりを描こうとしない証拠だと思う。この映画に出てくるもうひとりの性的少数者のカイも同じだった。優しく耐えようとするだけの存在以上のものがない。
まぁこの映画に出てくる全ての人が何かしらの属性でしか描いていないから、トランスジェンダーの描き方が特別無理解だと怒っているわけではないんだけど。全員が全員人間らしくないからお金と演技力をかけたごっこ遊びに見えるってだけで。
個人的に叔父マキオの描写をもう少し踏み込んだものにしてほしかった。ヒロミ(主人公の育児を放棄した母、マキオの姉)に対してリンコの存在を打ち明けていなかったことは終盤で判明するんだけど__これも主人公にリンコの存在を説明したときに合わせて言及してたら印象がかわるんだけどな。
世の中の風当たりを考えたらトランスジェンダーの女性と暮らしてるかを姉に伝えてるかどうかは想像出来るけども、それこそ口にして説明しなければいけないことだと思う。単にリンコを特別な人と形容するだけで留めておしまいというのは描写不足。それはリンコについての説明であって、マキオの持ち合わせる価値観やパーソナリティの描写にまで至っていない。
それにマキオの友達や同僚が一切登場しないので、マキオがリンコの存在と関係を公にしているかどうかも不明。そこらへんを公にしている・していないのどちらであるかをきっちり描いておけばもう少し違った角度から観れたと思う。そういったところをすっ飛ばして「色々大変だったけど付き合ってます」から動かさないあたりにモヤモヤするんだよな。シチュエーションで描くなって。意図的に排除されまくった父親の存在もどうかと思う。
マキオもリンコも主人公のトモを引き取ろうとする割に、二人で親になろうとする描写が今ひとつ足りない。なんだか同居人の延長のまま親になろうとしているように見える。小学生に対しての姿勢と考えるとちょっと都合が良すぎる。保護監督の元におくために役所へ行く、調べる、誰かに相談するといったシーンが全く無い。その割に家族にしたいみたいなことを口走るんだから「こいつら夢見てるだけかい」となる。
劇中2度ほど挟まれるフミコ(リンコの母)とフミコの再婚相手との食事シーンも口にされる言葉は「リンコは苦労した」か「リンコは運がいい」であって、いま目の前に保護と愛情が必要なこどもが居ることを完全に無視している。そこがとにかく不気味で気味が悪い。再婚相手も添え物みたいに何も言わないし。フミコに関しては途中から「こいつはべらべら喋ってるけど何を言ってんだ?」としか思えなかった。親に捨てられた子を前に、我が子の話しかしないのサイコじゃん。
メインキャラクターとしてのトランスジェンダー メインテーマとしての母
この映画には5人の母親が登場する、主人公トモを捨てたヒロミ、リンコをリンコとして成長できるよう支えたフミコ、ヒロミ・マキオの母サユリ、性的少数者カイの母ナオミ。そして劇中最後にトランスジェンダーの母親として愛を託したリンコ。
これらのキャラクターを比べることで、母親とはなにかを考えさせる一端となる。この映画は性の適合手術を受ける前の、学生時代のリンコが、リンコとして生きていけるようフミコはリンコの育たない乳房の代わりに毛糸で編んだおっぱいを与えた。その施しを、リンコはそっくりそのままトモへ与えることで終わる。
だからこそリンコ・主人公のトモ・マキオの三人で取り組んできた、鬱屈した気持ちを出発点に編まれた毛糸のちんぽたちは劇中で燃やされなければいけなかった。トランスジェンダーの女性でも母親として子供に愛を与えることが出来る。これがこの映画の最後のメッセージとなる。
ただそれでも、押し黙って我慢しろのメッセージの否定にはならないんだよな。燃やしてなかったことにしただけじゃないか?やっぱりこの物言わぬまま抵抗することに対してのフォローの至らなさが一番気に食わないんだと思う。
おそらく監督の中では母親の愛と継承がテーマだったのだろう。ただ、それを描くために用意した材料と調理がうまく作用しなかった。メインキャラクターがトランスジェンダーであるということの説明に時間を使いすぎた。二回言うけど2017年でこれはちょっとひどい。美しく清潔感のある映像を効果的に撮ることが出来るんだろうけど、根本的に人を描くセンスに関しては欠落している。
まとめ
カラフルちんぽが飛び交うシーンは本当に面白かったのでその方向で伸ばしてほしい。脚本は他の人に任せたほうが良い。
追記
思い返してみると、リンコとマキオが同棲してるわりにスキンシップがほぼ無かった気がする。まぁ11歳の子供の前でいちゃつくのは憚られる気もする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?