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『読書感想文』に必要性を感じない。

 私がnoteに最初に投稿したのは、『「読書感想文」レシピ ~私が乗り切った方法~』というタイトルの記事だ。
文字通り、「読書感想文という課題をどう乗り切るか」についての経験談を備忘録としてまとめたものだ。
 あの記事はそもそも、読書感想文の課題を心から楽しむことを目的としていない。なので、記事を「文字だけを追いかけ頭がパンクする寸前まで活字の氾濫に溺れる感覚も、存外いいものだぞ。」と締めた。
 それは、
読書感想文の負の思い出を理由に読書離れするのは勿体ない

読書感想文の攻略の参考になるならどうぞ

読書は読書、感想文はただの課題と全く別に切り替えてもらえまいか

読書そのものは課題から切り離せばとても楽しい趣味なんだよ!
というコンセプトの元に投稿したからだ。

 誤解して欲しくないのだが、私個人の考えとして、この読書感想文を純粋な国語力を鍛えるうえで全く役に立たない時間の浪費だと考えている。
 そもそも、私は日本の教育システムに対して疑問しかない。その疑問の最たる例が読書感想文であり読書感想文は教育に必要ないと思っている人間だ。なので、私自身のことをあの記事を通して「この人は日本の読書感想文の文化をこよなく愛する読書感想文推奨派の人間なのだ」と思われたくない。当時やるしかない課題の中で最もストレスが少なかったからやむを得ず一番頑張って取り組んだだけ。

 何度でも主張する。読書感想文は必要ない。
 日本の教育システムは、特に「国語」において根底から覆すレベルでの改革が必要だ。その改革において、読書感想文と付随するコンクールは廃止すべきではなかろうか?

 ほぼ1年前になろうとしているあの記事に込めた真意を、今年は言いたい放題ぶっちゃけてしまうとする。前回に引き続き、学術的根拠はゼロだ。


1-1.『読書感想文』というタイトルがバグ Part.2

 私が何故読書感想文に廃止を望むか。以前の記事と変わりない。書いた生徒の感想という名の個性を本来全く求めていない癖に、感想文なんて無責任なタイトルをわざわざ付けるなという不信感によるものである。

 TwitterのRTで回ってきたことのある有名な話だ。
「ごんぎつね」の感想文でごんが死んだのは因果応報だと書いた児童が問題児扱いになったという投稿だった。その児童以外は全員がごんが死んだことを可哀想だと書き、それが教諭陣の中での揺るがぬ「正解」だった。ゆえに因果応報と書き締めた児童の感想が「誤答」となった、という顛末。
 これをおかしいと思わない教諭陣にゾッとしたのは私だけだろうか。人の数だけ感想はある。感想とは主観であり、そこに正解も間違いもない。そして全ての主観には生育歴と性格から成る理由がある。この例に対して、ごんが死ぬ結末を因果応報とする感想を否定するのもまた教諭陣の感想という言い訳は断じてまかり通してはならない。ここで感想の自由を持っていいのは感想文を書く生徒達である。導くべき教諭陣には、あらゆる感想の種類に対してそれぞれの自我とその所以をいち個性として認めるという最低限の責任を負う義務がある。

 感想の内容に対し熟慮させる時間を取りたいのなら、その場は道徳と倫理の授業であるべきだ。
 国語は国語。感想を文章化する技術とそれに必要な言語と応用法を学ぶための時間。
 道徳は道徳。ごんの死に対しての思いに正誤をつけるのではなく、それぞれの考えを排他しない多様性を学び、社会としての正解を知識として蓄えるための時間。
 倫理は倫理。それぞれが人生における道徳観念の基礎に何を据えるかを決めることを目的に、哲学を通してアイデンティティ確立のための選択肢を知る時間。
 わざわざ授業が別に組まれている理由を、読書感想文を利用して教諭自ら否定するのは如何なものか。そしてどの授業の場合においても、正誤の判定による白黒つけた締めくくりは必要ない。


1-2.『読書感想文』というタイトルに対して無責任すぎやしませんか

 先述した通り、感想とは正解不正解なく、ただいち個人としての主観である。つまり読書’感想’文というタイトルがついている時点で、出来上がった作文の主観的部分に対して作文技術以外の訂正が入ること自体がおかしいのではないか。
 書いた生徒の主観を書けという意味しか読み取れないタイトルの課題を提議しておきながら、文法の正誤以外に訂正を入れる。真の主観である純然たる感想を全く尊重しない同調圧力を作り出す。多数の感想が正義に変換され少数派は悪とされる。結局のところ、教諭陣が求める理想像を察する能力に長けた(大人にとって都合の)いい文章のみが表彰される。それが読書感想文の現実だ。それで教育の場が尊重すべきは多様性って? ウケる。ウケんけど。

 大人が求めている答えをいかに察して文章化できる子かどうかを見たいだけの課題に何の意味がある? 小中学生に社会の闇を既に教えておきたいのか? 同調圧力という名の協調性を幼いうちから徹底的に刻み込み、真の個性を潰すことで突飛する子もおらず見守りやすいクラスを保っておきたいだけか? そうして教諭陣と親にとって都合のいい主張のない人間にすくすく育てておいて、真の個性と自主性を求められる場となる高校や高専、大学や専門学校を目指す時期になったら後は自己責任で頑張れと大手を振ってぶち込むと?
 そんな無責任が許されていること自体がおかしい。感想文というならば、教諭陣も審査員も全ての『感想』を尊重するという責任をとって然る。『感想』に正誤をつける優劣のコンテストと化している時点で、読書感想文は存在意義を自ら否定している。そして国語のカリキュラムに組まれている意味もない。

 そもそも、自己分析の文章表現を全生徒が教諭に強制的に晒す必要性とは。いじめ主犯が生徒指導部でカウンセリングを受けた後に自己を見つめ直し深層心理を整理する手段に用いる程度で充分だ。そしてそれはスクールカウンセラーが一対一で手厚く寄り添いカウンセリングを深める過程で共に完成させていくものであり、全ての生徒や教諭がわざわざそれに目を通し評価を下す必要もない。

 教諭陣と審査員が何を夢見ているのかは知らないが、子供は純粋でも性善説の申し子でもない。大人と違い知識量が少ないがゆえにただ無垢であり、それぞれの性格と生育歴に合致する大人の一面を好んで模倣し吸収するというだけだ。大人にとっての「子供はかくあるべき」を量産するための慣習は時代錯誤。


2-1.「国語」の目的 ①文字を脳内に読みとり認識する

 以前の記事にも記述したが、四月生まれから翌年三月生まれの人間が一緒くたになる教室という小さな社会において、四月生まれと三月生まれでは発育に一年の差がある。加えて生まれ持った脳の能力の差というものも存在する。教科書や本の文章を読むにおいて、成熟度の違いすぎる大人である教諭の指導と読む力にしっかりついていける生徒と遅れを取る生徒がいる。

 目で直に文字を追う形の読み方が脳の能力の理由で困難だが、聞くことを介してならば途端に理解できるという人がいる。また別の人は、使われているフォントさえ異なればそれまでが嘘のように文字を読めるようになったりする。行間の幅が読むことを困難にさせる理由になっているだけだったという人もいる。一行分だけが見えるように切り込みを入れた厚紙を教科書に滑らせていくことでやっと文章が頭に入る感覚を知ったというケースもある。
 識字障害は決してフィクションではない。その人だけの不運なバグでもない。ごく身近の、よくある個性のひとつなのだ。

 『自分に最適な方法で目の前の文章を過不足なく読むための補助』が必要な人もいれば、不要な人もいる。識字に限らず、全てのことに対し能力は人それぞれに異なる。自分の生育度と脳の能力と必要な補助のかたちを正しく理解し、文章という情報を自分に合った学びの手段で身につける。それが『文字を読む』という力だ。


2-2.「国語」の目的 ②文字を音読で表現する

アニメ、ドラマ、映画、演劇、朗読、ラジオ、お笑い、ナレーション、実況、解説、バラエティー番組の推しアイドル。世界中でこれらすべてがある日を境に突然抑揚ゼロの棒読みになったら、我々はそこに価値を感じ続けられるだろうか。

 ハッピージャムジャムを歌うしまじろうの声がブラック企業二十連勤もかくやのしんどみ極まる溜息混じりの無感情なオッサンボイスになったら、一緒に踊りたがる子供は誰もいないだろう。
 四千頭身の後藤氏は他にいないキャラだからこそ笑いになる訳で。日本だけに留まらず世界中すべてのコメディアンがボケツッコミ問わず彼のように淡々と話すだけになってしまえば、それはその時点で個性ではなくなる。
 セーラームーンからあのイントネーションが消えた時点で、そのお仕置きは月に代わってなどという大口を叩ける程の絶対的信頼を失うはずだ。
 世界の中心で大声で叫ぶからこそ愛として認識されるのであって、ボソボソ棒読みで助けて下さいと一言二言呟いたところで観客は何の感情も鼓舞されなかっただろう。
 抑揚や演技以前に全ての文字を全く同じ音で読み続ける絵本の朗読の時間をいったい誰が楽しむだろうか。

 音読とは、音節という概念を理解しすることにより、更に強く感覚に訴える伝え方を勉強する手段なのだ。聴覚に障害を持っていない相手に対してプロポーズや感謝、誕生日や記念日を祝う言葉を直接言うとき、感情や表情を込める能力も抑揚をつける力もあるのに何ひとつ込めずに棒読みで伝えてしまったらそこには何の価値もない。ろう話者も手話ニュースも、声の代わりに表情に抑揚をつけることで伝わり方を効率化している。
 言葉と感情表現は切り離せない。どちらも欠けてしまっては文化が成り立たない。


2-3.「国語」の目的 ③書く

 社会に出て困ることの無いよう、正しい文法と普遍的なマナーに則り文章を組み立てるための基礎を習得する。そのために必要な語彙とその書き方を学び、最適な並べ方を知る。それが『書く』力だ。

 句読点の位置の是非、助詞や形容、三点リーダーや感嘆詞の使い方、などなど。主語と目的が何にあたるのかを誤解なく伝えるための必要最低限な理解を促す書き方は、何時の世もどの国のどんな言語においてもそれぞれに普遍的だ。自国の言語を正しく使えるからこそスラングを操れる。自国の言語の基礎を正しく理解できているからこそ他国語を理解し新たに利用できる。

 正しく伝えるための書き方はどう役に立つのか。簡単だ、読み手に与える誤解や印象の齟齬を最小限に留めることができる。ただでさえ受け手のお察し能力に頼る傾向にある日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字を駆使する視界情報の補助も組み合わせれば実に面倒臭い言語だ。加えて、人前での失敗や誤りを極端に恐れる国民性に四季折々その他ケースバイケースに用意されている多種多様の例文が地獄のマリアージュ。人によってはたった一文字の誤りをそれ見た事かとあげつらう。
 多様性を説いておきながら、協調性という名の同調圧力を強いる。出る杭を伸ばすために寄り添ってくれる人よりも、些細な誤りをここぞとばかりに人格否定の手段に利用し徹底的に打ってくる人の方が多いのが現実だ。大学生や高校生に社会に出るためだとがむしゃらな勉強と制作への没頭を促しに促す癖に、社会で本当に必要な身につけるべきマナーはほぼほぼ必修科目に据えられていない。

 古文の時点でわかることだが、日本は本当に面倒臭い国だ。面倒臭い国らしい面倒臭い言語だからこそ、その面倒臭さを正しく駆使できる人間が代々生き残れた国なのだ。五七五七七の文字数に込められるだけの言葉遊びを詰め込みまくりひとつの文学として完成させる者だけが、婚姻に漕ぎ着けられた。そんな貴族歴史をもつ国なのだ。
 そんな日本において「ここぞという大事な時において日本語を正しく使う」ことで不必要な衝突から免れることができる。一目おいて貰えれば守ってもらえる。守ってもらえれば成長の余地を見込んでもらえる。見込んでもらえれば生き残れる。

 筆記用具を手で用いて字を書くやり方が全てではない。筆記障害がある人はパソコンやタッチパネルで打つ場合もあるだろう。それも個性だ。正しい書き方は筆記用具キーボード関わらずそれぞれのやり方で身体が覚えるものだ。
 重要なのはそこではない。書くという行為は手段と形式を問わず、自分という人となりを形成していく行為そのものなのだ。正しく書くことは人のためではなく、結局のところはすべて自分自身に帰依する。


2-4.「国語」の目的 ④読解

 概要を過不足なく他人に伝えるために読み取る力、それが『読解』力だ。主観を織り交ぜた持論展開の大義名分探しでもなければ、感想や意見の組み立て方でもない。読解とは、読み、第三者の目で内容を理解する力なのだ。
 そこには推測も感情移入も必要ない。500字の文章を100字にまとめるための要点を抜き出し端誤解なく並べる、あらすじを作る能力だ。

 読解についてのまとめは上記が全てだ。この章は特にそうなのだが、以下は見るに堪えない私の主観になる。次の章を知りたいなら下の()内はかっ飛ばしていい。しかし次の章もほぼほぼ主観ですごめんなさい。

(昔からほんっっとに理解できないことがある。「作者の考えを抜き出しなさい」ってやつ。あれ必要か?
 私がその本の筆者だとしたら「いっけなーい締切締切☆ わたしBbab、絶賛推敲中! これじゃあ間に合わなーい! 校正が大事なのはわかってるけど絶対に気付いていない見落としがあるはずなの! でもそれがどこか全ッッ然わからーん☆ あらやだそうこうしてるうちに編集さんが来る時間! 次回ッ!『どうにでもなれ入稿ぴっぴろぴ〜〜〜!!』(過労寸前編集長との)デュエルスタンバイ!」くらいしか考えてないと思う。なのでそんな試験問題の題材にされるのは甚だ困る。ということで依頼自体を絶対に断る。第三者に勝手な憶測で筆者像の理想を形作られても、「この試験問題を作った人って私の何を知っているつもりなのか」以上も以下もない。恐らく何の感慨も生まれない。
 そもそも作者の考えなんて地の文に組み込むよりも登場人物のセリフかモノローグ利用してエゴの全てぶち込むほうが遥かに楽だし、そんなに齟齬なく伝えたきゃ本文よりもあとがきかブログの場を借りて詳細追記してると思う。
 こういう問題を無理やり作り上げて正誤を生み出そうとするから「空気読め」なんて一言を本来操るべき多数の言葉をごっそり怠けるための大義名分にしちゃう面倒臭い社会が出来上がるんじゃないですかね。空気は文字じゃない時点で読むもんじゃなく吸って吐くもんだ。この手の作者の意図抜き出し系の問いを間違えた記憶は殆どないが、解き方のわかる問題イコール好きな問題とは限らない。ていうか本当に作者に問い合わせてるんでしょうか。もしも問い合わせていないならば敬意とは?)

 以上。次に行こう。


2-5.「国語」の目的 ⑤作文表現力

 作文表現力とは『求心力のある作文を書く技術』だ。平たく言えば、続きを読みたくなる文章を書く方法を身につけるということだ。

 好きな漫画やアニメ、エッセイ、文学、映画、ドラマ。何かしら、好ましいと思えるフィクションというものがひとつはあるだろう。それを楽しんでいる時に、こんなことを思ったことはないだろうか。
 テリュースとキャンディが元鞘に収まってこんな乗馬デートをして欲しい。アンドレ生存ifで二人の結婚式はどんな感じかな。あの時魚住が退場しなければ。凪ちゃん独り身オチじゃなくてどっちかとくっついたってよかったじゃん。このポケモンに更に一段階上の進化系がいたらこんなデザインでステータスと属性と技名はこうだろうか。
 そんなif妄想を何かしらの形にする活動を、世間では二次創作という。流石にこの場でそれを堂々と推奨することはできないのでこの話はここまでとする。上記の妄想達はあくまで「創造力」の例として挙げたに過ぎない。

 私は、更にもう一歩踏み込んだ作文課題をふたつ提案したい。どうせこの記事を読む国会議員も政治家も教育機関関係者もいない、提案するだけなら自由だ。

 そのひとつは「創作作文」だ。オリジナルの小説もしくはエッセイを書くという、「読ませる技術とロジカルな構成力と創造力の三点すべてを身につけるための作文課題」は何かと考えた時、クラスの皆の課題作文をまとめた文集がオリジナルの小説だらけだったら読んでみたいと思っただけなのだが。
 これぞ個性そのものの具現化なのだから、各々が込めるエゴに教諭陣が正誤性と優劣を問う必要がない。先生の手直しを文法や各文の順序の是非、ちょっとした慣用句の是非など最低限のものに集中できる。筆者=生徒達の純粋な人となりや彼らなりの現時点での信念のかたちを、審査する大人への忖度を抜きに自由な表現で楽しんでもらえる。大人の目にとって表現の幅が稚拙であっても構わない。つまり、原文を先生の好みの文体へ不必要に変えたりしてはならない。翌年は前年のものを改訂版として書き直したっていいし、続編や別物の新作だっていい。大人から見ての理想ではなく、子供たち同士での純然たる切磋琢磨を期待できるのではないかと。

 もうひとつは、「あらすじ量産」。
 定められた期間にとにかく、長編文学(1冊に1作品/短編集ならば全ての作品にあらすじを書く必要があるがすべてまとめて1冊分のカウントとする)・詩集・エッセイ・映画に限定して数を読む(観る)。読んだ(観た)もののあらすじを自分で考えて、
①あらすじを書いた用紙
②その本(映画ならパッケージ)
③ネットショップのあらすじ&レビューのスクリーンショットを印刷した用紙
の三点をセットで提出する。裏表紙や帯、ネット情報のパクリが秒でバレるため誤魔化しがきかない。
 これは、純粋に読解力を鍛えるために数をこなすだけのスパーリング課題だ。「親を失った可哀想な主人公は」といった主観による感想はあらすじに一切含んではならない。「この後主人公の運命はいかに━━!」みたいな締め方もNGで、あらすじだけで本の起承転結をまとめた形であることが条件。
 どうしてもコンテストにしたいなら、余計な部門や私怨を生む景品制度などは一切作らずに提出数の多さだけを条件にしたらいいかも。ノルマは一人一作品で、二作品目以上は自由参加とする。

 ……また主観でしかない章になってしまった……。何を言いたいかというと、創造力を伸ばすことそのもの読解力そのものの向上という二極化に振り切ってそれぞれの目的に特化した教育プログラムを別に作ったらどうですかねというおはなし。
 全部をいっぺんに叶える怠慢を無理やり形にしようとするから、読書感想文なんて意義のわからん慣習になるのであって。真の効率化を考えるならば、ルールが誰の目にも明確かつ目的を絞ったプログラムを趣旨別に準備した方が、長い目で見て先生の負担も減るのではないかと。


2-6.「国語」の目的 ⑥対話力

 聞き手や読み手のフィーリングやお察し能力に頼りがちな傾向にある日本語だが、他国に対し決して劣っても優れてもいない。日本語はただ日本で主に使われる言語、それだけだ。
 どの国にも、その国にしかない概念を表す単語があり、独特のオノマトペや慣用句があるものだ。日本語は情感に訴える傾向にある表現が多い言語だから論理的に話すのに向いていないなんてことはないロジカルに話すのに向いていない言語などひとつも無い。それを操るいち個人にロジカルな対話や文章構築のための訓練が足りていないだけだ。

 これを考慮してか、昨今の教育・啓発系テレビ番組や授業カリキュラムでは、ディベート(討論)の形を取り入れるケースが少なくない。
 だがそのほとんどが、本来あるべき討論の形をまるで成していない。もしくは論ずるに相応しくないテーマを掲げてしまっている。

 そもそも、ディベート(討論)とは何か。賛成・反対もしくは〇〇派・△△派といった二つの反する意見に別れてそれぞれの主義を主張し合う議論のかたちだ。ここまではまあ、共通見解だろう。しかし重要なのはこの後だ。そしてこの重要なところが殆どの場面で無視されている。ディベートとは本来、立場を入れ替える形で二部行うものなのだ。
 例にしてみよう。前半となる第一部ではAグループが賛成派、Bグループが反対派として「私立の教育機関撤廃」について討論する。後半となる第二部ではAグループが反対派、Bグループが賛成派の立場に変更して同じ「私立の教育機関撤廃」について討論する。
 そう、参加者は同じ議題について必ず両方の立場に立つことになるのだ。つまりディベート自体の終着点は、正誤の結果を出すことでも勝敗を決めることでも相手を論破することでもないということがわかる。では、ディベート(討論)の目的は何なのか。相互理解と、個人のなかの不足していた観点への気付きである。つまり、一人が片方の派閥に留まるだけの討論や一部の参加者が逆意見へ行き来する権利を与えるだけの討論はもはや討論ではない。

 互いの心を真正面から否定し自論こそが正しいのだと一方的に押し付け合い勝敗と正誤を定めることを討論の終結とするなら、それは武器の代わりに言葉を用いるただの白兵戦だ。たとえ人の命が物理的に失われることはなくとも、言葉のナイフが相手の心を刺し貫く。自尊心という血がしとどに流れ落ち、自己否定の楔に心の衛生兵が臥す。
 我々の観る国会中継や大統領選はどちらだろう。真の討論とは、建設的な議論とは、本来何を産み出す場になり得るべきなのだろう。


3.それって本当に「他者を尊重したうえでの論破」?

 あなた(わたし)が議論もしくは討論の場で意見を話しているとする。当然ながら、周りはあなた(わたし)の意見を聞いて考えてくれている。あなた(わたし)の意見は、他の大多数もしくは反対意見の人とは異なるが、あなた(わたし)の熱心な言葉に対して誰も指摘やアドバイスをしてこない。あなた(わたし)の意見がかなりの優位に立ちつつある雰囲気を感じる。

STOP。その状況、本当に「論破」?

 『あなた(わたし)の論破が上手くて完璧だから周りがぐうの音も出ず納得せざるを得ない状況を作り出せている』のか、それとも『こいつには何を話しても届くまいという諦観を前提に早く終われと周りから見限られ距離を置かれている状況』なのか。議論の場で自分が話している時に清聴下さっている周りの反応は、果たしてどちらなのだろう。それを察するために必要なのは、心の余裕と視野の広さだ。
 ここで言う心の余裕とは、相手より優れた立場に立とうとか相手を蹴落とそうという見下した感情によるものではない。いまの自分の主張や意見を自ら第三者の目で俯瞰できているかという意味に基づいた脳の余白である。議論に勝ち負けや正誤、優劣を持ち込んだ時点でその脳の余白はなくなる。
 そして、ここでの視野とは観察力を意味する。『論破できたぞ、私がこの場の支配者だ、私こそが正解なのだ』と思い込んだら最後、あなたの視野は承認欲求のベールを被る。本来あるはずの観察力と洞察力は途端に濁り始め、味方が離れ始める。ひとたび論破に至福を感じると、そこから尊重と多様性への歩み寄りが欠ける。

 賞賛欲しさの虚栄心が建設的な議論や結論を産むことは絶対にない。賞賛は人生の指針ではなく、誠実な生き様に対して後から勝手についてくるものだ。

 そもそも、論破を議論や討論の目的にするという誤った傾向が余りにも多いように見受けられる。論破はただの結果であり、目的ではない。論破を目的に展開する議論は何の人望も結果も産まない。
 議論も討論も、その時その状況の条件に対しての最適解を導くための手段であり、勝ち負けや優劣や正誤の判定を持ち込む場ではない。対話とは勝負やぶつけ合いではなく、相互理解と視野拡張のための手段だ。

 相手の言葉を遮って我を貫き通すことが優位性だと履き違えるなどもってのほか。相手の心の内を聞く気のない自分本位な人間と誰が仲良くなりたいと思うか。
 ただし、話しているうちに自分の意見がよく分からなくなっているらしい人を一旦落ち着かせるための遮りは、この例に留まらない。そういう人も遅かれ早かれ場を重ねるうちにそれが訓練となり、周りと自分の意見を整理できるようになる。もしできるようになれないのなら、導き方がその人の特性に合っていないか脳の能力自体が不向きなだけだ。本末転倒と言われればそれまでだが、脳の構造がそもそも議論に向いていない人もいれば生まれながらに対話が得意な人もいる。全てにおいての前提になるが、自分にできることのすべてが他人にも当然できることだとは限らない。

 『どうか御理解頂きたい』で締めくくりたいのなら、相応の努力をもって論理的に伝えるのが筋というものだ。話し手がロジカルな対話をできていないのに伝わるわけがない。相手の能力や特性に合わせる歩み寄りの姿勢を具現化してもいないのに、聞き手にばかり理想的な正しい理解を求めるのは違う。相手にいち聞き手としての真摯な態度が見えたうえでそれでも正しく意図を受け取ってくれていないと判断できる状況ならば、それは単に話し手の技術不足なのだから。言い換えれば、伝え手の努力と訓練次第で奇跡をいくらでも起こせるようになる。
 反対に、他の第三者の誰が聞いても正しく理解できる内容であるにも関わらず肝心の聞き手側に意図を正しく汲み取る意思がないとしか見えない状況ならば、理解云々以前にその聞き手の中に誠意がない。つまりその聞き手とは縁がなかっただけのこと。見限っていい。


おわりに

 今年も何だかんだで長くなったが、結局のところは記事タイトルに立ち返る。「読書感想文がなくなればいいのにな」。
 
あんだけ事細かに当時の対策法をまとめておいて今さら言うことじゃないんだが、義務化するだけの意義を読書感想文に感じたことがない。苦手ではなかったけど、楽しみでもなかった。
 読書自体は好きなのに、その楽しさを共有したいだけなのに、わざわざあんなつまらない課題にする必要性あるんか。そこに愛はあるんか。心のアイフル女将があの形相で当時のダメ出し担任の顔面に拳を突いている。
 創作作文課題とあらすじ量産を誰か権力者が実現してくれなんて大それたことは言わない。できる訳がないだろこんなふざけた課題。

 せめて、私が老衰で死ぬ前までには読書感想文が日本から消え去りますように。


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