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今夜、すべてのバーで

 お酒についてのエッセーを読んでいると、今まで知らなかったお酒の名前、原料と作り方、そこにまつわる文化などを知ることができとても面白い。そして今度バーに行ったらこれを飲もうと思えるようなお酒の名前を一つ知ると、なんだか大人になったような気分にもなもれる。

 中島らも「今夜、すべてのバーで」講談社文庫は、タイトルから想像されるような楽しいお酒のウンチク話ではなく、朝から晩までお酒を飲んでいないと生きていけなくなってしまったいわゆるアル中(アルコール依存症)の主人公が、どうにもこうにもならなくなった体を引きずりながら病院を訪れる場面から始まる物語だ。

 酒の味を食事とともに楽しみ、精神のほどよいほぐれ具合を良しとする人にアル中は少い。そういう人たちは酒を「好き」ではあるけれど、アル中にはめったにならない。
 アル中になるのは、酒を「道具」として考える人間だ。おれもまさにそうだった。この世からどこか別の所へ運ばれていくためのツール、薬理としてのアルコールを選んだ人間がアル中になる。

 この世からどこか別の所へ運ばれていくためのツールとしてのお酒。子どものころ父が酔うとジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」をよく歌ってたことをふと思い出した。物悲しいメロディーと歌詞。これを聞くのが嫌いだった。

知らない街を 歩いてみたい 
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい
遠い街 遠い海  夢はるか ひとり旅
「遠くへ行きたい」作詞:永六輔,作曲:中村八大

 どこか別の所への逃避。それがどこなのかは知らないけど、ここではない所。なぜ、ここではいけないのか。何を求めて別の所を目指すのか。置き去りにされてしまうものはなんなのか。
 そんなことを考えながら、もう一度「今夜、すべてのバーで」を読み直そうと手に取る。小説タイトルのページの前に古代エジプトの小話が紹介されている。

「なぜそんなに飲むのだ」
「忘れるためさ」
「なにを忘れたいのだ」
「‥‥。忘れたよ。そんなことは」 

 なるほどね。どこか別の所へ運ばれたい。忘れたい。それが始まりだったとしても、アルコール依存の沼にはまると、それが何だったかなんてどうでもよくて、ただ飲み続けるしかなくなる。
 最後には肝臓が悲鳴をあげ、固形物を受けつけず歩くのもやっととなり、とうとう入院となる。お酒と切り離され、つらい禁断症状を乗り越えてだんだん体調がよくなってくる。久しぶりの食欲。心地よい睡眠。ようやく取り戻した普通の体だというのに人間勝手なもので、入院生活を退屈に感じ始める。それも10日そこらで。
 この先退院したとして、この退屈を持て余しまた飲んでしまうのではないか。飲まずに肝臓をいたわって過ごせば、この先まだ何十年も生きることはできる。でも、飲めばあっという間に元通り、いや更に肝臓にダメージを与え肝硬変になるのは確実だ。

 そんな折、肝硬変で入院中の同室者が院内で隠れて飲んでいるところを偶然みつけてしまう。板前だったこの同室者は、何回も入退院を繰り返していて、自分が見聞きしてきた経験上、アル中は絶対治らないと断言する。12年も禁酒していた断酒会のメンバーが、出されたコップの中身をお酒と知らずに飲んでしまったのをきっかけにあっという間に元通りになった。アル中はいつまでたってもアル中なんだと。
 だからといって飲む理由にはならないでしょう、という問いかけに

ふぐを知らずにメザシ食って百まで生きるか、ふぐの肝食って、酔って眠る方を取るかって。

 お酒だけでなく、食べ物もそうだ。好きな食べ物を我慢してまで長生きしたくないと言う人はいる。我慢するほうがストレスがかかって、余計に体に悪いなんてことを言いだす人だっている。
 自分の体だ。好きなようにさせてくれ。そこを振り切って、自分を律するために必要なものは何か。

酒をやめるためには、飲んで得られる報酬よりも、もっと大きな何かを、「飲まない」ことによって与えられなければならない。それはたぶん、生存への希望、他者への愛、幸福などだろうと思う。飲むことと飲まないことは、抽象と具象との闘いになるのだ。抽象を選んで具象や現実を制するためには、一種の狂気が必要となる。

 つまり、生きるためにお酒をやめるには、えらそうな人間にならなくてはいけない。生存への希望、他者への愛、幸福。あるのかないのかもわからないものの存在を信じ、そのために頑張れる強い人間にならなくてはいけない。でも、みんながみんな、希望や愛や幸福を語れるわけではない。どん底で生きている人たちもいる。ようやくみつけたとしても、また裏切られることだってある。普通の弱い人間ではだめなのか。いいじゃないか、好きな酒を飲んで死んだって。死んだ瞬間から忘れ去られる人間だったとしても、むしろその方がさっぱりしてる。

どうして人はアル中であってはいけないのか。えらそうな「人間」でなくてはならないのか。

 そんな中、94歳の老人が長生きするコツを話す。

「そうやなあ。朝のまんま食べたら、昼のまんま待って。わたしら、水菓子が好きやから、はよう秋になって梨が出てくれんか、とかな。ご飯とご飯のあいだを、うまいこと縫うて次までいきよるさかい、長生きなんやろうなあ」

 94歳まで生き抜いた老人は、けっしてえらそうな人間ではなかった。彼の人生は、後世に残る何かを成し遂げたとか、多くの人たちの記憶に残る生きざまとかそんなたいそうなものではなく、一見ありふれた人生だ。でも結局、目の前のありふれたことを一つずつ片付けながら、小さな希望や喜びを大切にして、うまいこと具象と現実の世界を縫うように生きていくことが大切なんだという教えだ。そこにいるのは別にえらそうな人間ではなく普通の人間だが、これこそが生き抜いていく人間の姿なんだろうと気づかされるいい言葉だなと思う。

 それでも、生きていればどこか別の所へ逃避したくなることもあるだろう。お酒を飲んでの逃避の行きつく先は死であったとしてもだ。小説の中には、でも死んではいけないというメッセージが込められていた。それは病院内での突然の死が無言で伝えてくるものだったり、飲み歩き事故死した親友の妹が主人公に対して投げかけるキツイ言葉の数々だったりにだ。

 バーには色々な人が集まる。生きている背景はさまざまだが、お酒だけが共通項だ。当然その一人一人に物語があり、見えている世界は違っている。この小説の登場事物一人一人も偶然バーに集まった人と同じで、生きている背景はさまざまだ。バーで飲むお酒の種類がそれぞれ違うように、抱える病気は皆違っているが、それぞれの病気という共通項で病院に入院している。そんな彼らを通して「生きること」「死ぬこと」を、その人の視点から見ている、そんな小説だと感じた。

 

 

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