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野球ボールと「ものづくり」

 先日メジャーリーグが投手の粘着物使用を取り締まる方針を示し、それに対してダルビッシュが苦言を呈していた。手に滑り止めをつけて投げるなんてルール違反と言われても仕方ないと思ったのだが、なんでもあちらの野球ボールは日本のものと比べ滑りやすいため、投手は松ヤニや日焼け止めクリームを指につけて引っかかりやすくしているという実情があるという。

 この野球ボールを柳 宗理はその著書「柳 宗理 エッセイ」のなかで、アノニマス・デザインのひとつとして紹介している。

 野球のボール。投げ、受け、打つこの野球のボールは競技をする人々にとって、最も心地よく、使い易いものでなければならない。又適度の弾性があり、少々乱暴に扱っても、びくともしない頑丈さをもっていなければならない。要するに全精神をこのボールに集中するから、それにこたえるべく、このボールは頗る健全な状態を備えていると言えるだろう。ボールの表面は白色に染められた牛の鞣し革だが、真中がくびれた瓢箪型の革のシートを二枚、赤い麻糸で縫い合わせて出来ている。この縫い合わせは、カーブとか、シュート等、種々の球を投げるのに大変重要な役目をしているわけだ。用に即したこの赤糸の縫い合わせは、何と素晴らしい高次曲線を描き出していることだろう。用即美とは正にこのことを言うのではなかろうか。美意識をもったデザイナー等いささかも手に触れられない毅然とした美しさをもっているのがこの野球ボールではなかろうか。

 この文章を読んだとき、野球ボールが「アノニマス・デザインの本質をあらわしている作品」として美術館に陳列される様子を思い浮かべることは、正直私にはなかなか難しいと感じた。しかし、言われてみればあの赤いステッチの入った白いボールは、テニスボールやサッカーボールとは違い、野球をするために作られたボールだ。あの大きさ、あの形でなければならないはずだ。赤糸だってその太さとか、縫うときの目の詰まり方とか、色々試して一番適したものになっているのだろう。そうやって究極のこだわりをもって一番適した素材を選び抜き、それらを使って形作られた野球ボールなんだという意識を持つと、たしかに美しさが感じとられる。

 鷲田清一は、その著書「生きながらえる術」のなかで、ものづくりは匠の技ではなく合作であると書いている。
 匠が熟練の腕をもってつくる「もの」とは『くり返しに耐え長持ちする(堅牢)、使いやすい(簡便)、無駄がない(正確)』特性をもち『「用」にかなう「形」がぎりぎりまで突きつめられている』ものだと考えられるが、それを作りあげるための素材、材料、部品もまた、その「もの」をつくるために選び抜かれたものであり、それらを作る職人は『下請け、孫請けではない ”横請け” という協力関係である』

 「ものづくり」といえば、「匠」の一徹、つまり「わざ」の突きつめといった製作者の心持につい話が行きがちであるが、「ものづくり」はなにより「合作」である。

 ものづくりは合作であり、鞣し革にはも堅牢、簡便、正確なものが求められるはずだ。ダルビッシュが指摘しているように、メジャーリーグの野球ボールでは鞣し革が滑りやすい素材となってしまっているとなると、それは『全精神をこのボールに集中するから、それにこたえるべく、このボールは頗る健全な状態を備えている』状態とは言えない。この問題、なんとかならないものだろうか。

 

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