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楽園とか幸福とか

 今朝の日曜美術館は「“楽園”を求めて~モネとマティス 知られざる横顔~」だった。モネはあの有名な睡蓮のある庭をセーヌ川沿いの街、ジヴェルニーに作りあげ、自分の楽園を作った。マティスは南仏ニースに、自分好みのテキスタイルや装飾品に囲まれた部屋を作りあげた。モネは(1840年11月14日 - 1926年12月5日)、マティス(1869年12月31日 - 1954年11月3日)、ともに19世紀から20世紀にかけて活躍した画家だ。

 番組ではボードレールの詩から「人生とは病院のようなものだ」「この世の外ならどこへでも」ということばが紹介されていた。当時のフランスでは遠い楽園を求めるような時代の空気が流れていたという。この散文詩「パリの憂鬱」が出版されたのは1869年、ボードレールの死後2年のことだ。この年、モネ29歳、マティス0歳となる。そして翌1870年普仏戦争が勃発した。

 このような時代背景のなか、モネは理想とする楽園を求めた。ジヴェルニーには1883年から亡くなる1926年まで住んだという。浮世絵や睡蓮に楽園を求めたというのは、遠い異国への思いだったのだろうか。そこには、ここにはない何かがあると憧れたのだろうか。

 ヨーロッパの概念ですごいなあと思うのは、幸福という概念でね。ハッピネスとかラッキーということですね。あれはどっちも運なんですね。ハプニングのハプですから。幸福というのは運がよければ手に入るという、結構そういう感覚で捉えられていたのに、だんだん幸福は、自分が作品のように努力して作り上げたご褒美であるような、作り上げるものになってしまった。家庭でも、幸福な家庭を作る、というイメージでやっていったら、実はだんだん幸福から遠ざかって行く。僕は去年幸福論書かされて、改めて考えて不思議だったのは、19世紀までのヨーロッパの道徳論って、全部幸福がベースなんですよ。人は幸福になるために生きる、幸福だけは誰も否定できない、最高の善だと。
河合隼雄/鷲田清一「臨床とことば」メディアハウス
 そのころは幸福の幻想もあったんですよ。要するに、人間がここまで強くなってきて、人間がこれだけ深く思索することによって幸福がつかめるんじゃないかというふうに、皆思ったんじゃないですか。ところが、おっしゃったように、出てくるのは戦争とか、まるきり違う逆のことがいっぱい出てきて。20世紀はそうでしたね。そして、そういう方法では、皆がもう駄目だと思うようになったんだけれども、幸福のことを考える人、あるいは幸福の話は聴きたいという人は、今でも多いんじゃないでしょうかね。
河合隼雄/鷲田清一「臨床とことば」メディアハウス

 ボードレールの詩は、この世の外ならどこへでもと思ってみたところで、そんなところはないと気づき、そのうえで最後に「この世の外ならどこへでも」としか言えなくなる散文詩だという。モネもマティスも理想の楽園を作り上げたけど、そのことが結果的にだんだん二人を本当の楽園から遠ざけていくことになったんだろうか。本当のところはわからないけど、モネの作品も、マティスの作品も、時代を超えて今の私たちに訴えかけるものがあるとしたら、それは幸福なことなんだと思う。


 

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