見出し画像

「臨床とことば」を読み解く~言葉を掴んでしまう~

 相手の何かを変えてやるぞ、と身構えて話を聞くことがある。例えば自分が指導する立場になった時がそうだ。ゲームばかりで勉強しない子供との話合いとか、タバコをやめようとしない父親と健康について話合いとかを想像してみる。すると自分の心の中には「真面目に勉強してほしい」「タバコをやめてほしい」という希望があって、それが会話のゴールとして予め設定されてることに気づく。だから、相手から「この前のテストが出来なかった」とか「タバコは体に悪いってわかってるのだけど」なんてことばが飛び出してくると、そのことばにすぐさま反応して「だからいつも言ってるでしょう。そんなことしてたら…」とやってしまいがちなのは私だけではないはず。

 相手のことばを否定せず、想いを受け止め、その上で相手の考え方や行動に変化を求めていくのは正攻法ではあるが、そう上手くいくものではない。以前、行動変容の技法を学ぶため「動機付け面接」の講習を受けたことがある。太り気味でダイエットしないといけないが口癖の人が、「蕎麦は身体にいいと聞いたから、天丼と一緒に頼むのは蕎麦にしてるの」と言ったする。天丼だけでも高カロリーなのに、蕎麦まで一緒に食べてたらいつまでたっても痩せることなんてできないと普通は思う。でもここでは、天丼と一緒に蕎麦を食べたという事実に注目するのではなく、「身体にいい」ということばに反応しなくてはいけないという。話の流れを変えるには相手のことばのどの部分をピックアップするかなのだ。「身体のこと考えているのね」と返し、その後は健康について話を深めていくのだ。

 なるほどと思った。しかし実際にこれをやってみると、虎視眈々と相手のことばを狙う感じになってしまった。まさしく相手のことばを掴む感じ。

河合:そうなんです。受けているというより、それは、掴むんですね。そうすると向こうは動けなくなってしまう。受けてるというのは、ふわーっと受けてるわけだから、向こうはどこへも動けるんだけど。どうしても最初のうちは一生懸命やるから、言葉を掴んでしまうわけです。

 掴むのではなく、ふわーっと聞く。ふわーっと聞いているのに、相手は自分のことをちゃんと理解してもらえたと感じ、それが行動変容に繋がっていく。なんと難しい。

 掴むことで聴けなくなってしまう。
大まかにいえば、相手が出してくれた世界の、そこから私は勝手に出ない、と思っていたらいい。
こっちから入っていくと、相手は外から見ることができるわけですから。客観化できるわけですよね。だから「いや、そんなんじゃないんですよ」と言える。

 しかし、聴くというのは難しい。相手のことばの裏を読むことも必要。それは勘で賭けていくしかない。そこには相当なリスクも抱えることとなる。そしてその勘は修練により磨かれるという。

鷲田:そう考えてくると、臨床的な科学というのは、学問、科学というものと、メチエ、職人芸というのか、身体で覚える知恵みたいなものの境界にあるわけですね。
河合:アートとテクノロジーの間みたいなものになってくるんですね。テクノロジーというのは決まり切ってるわけです。アートは、本人そのものがすごく関わってきますよね。でもいろいろ理屈はありますから、そこまで個人的でもないんです。だから僕は、アートとテクノロジーの間にあるという言い方をしている。中間的なもんだと。

 臨床的な科学。数値化できない科学。アートとテクノロジーがキーワードとなってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?