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「臨床とことば」を読み解く~臨床哲学事始め~

 河合隼雄と鷲田清一の対談集。
 この本はある意味私の人生を大きく変えるきっかけとなった本なのだが、そこのところを語り始めると熱くなりすぎるし長くもなるので、ここではあえて個人的な思いには触れずに、ただただじっくりと読み解いてみたいと思う。

 さて、初回は「臨床哲学事始め」。
 哲学者の鷲田清一は、1990年代の前半から臨床哲学を唱え活動している。

鷲田:臨床という概念・・・。そういう名称がよいのかどうか、ものすごく迷ったんです。でも、考えたら、哲学の父祖というわれているソクラテスは何も書物を残していないわけですし、本を読んでものを考えたんではないんですよね。
河合:会話ですね。
鷲田:若いの、偉そうなのをつかまえて、質問ばかりして。
河合:臨床ですね。

 哲学というと、なんだかしかめっ面しながら哲学書を読みふけっているイメージなんだが(※個人の感想です)、彼は哲学を私たちの生活の場にもう一度引っ張り出した。 本の中の哲学ではなく、私たちとの会話を通して生まれる哲学があるという。

鷲田:哲学は本来ダイアローグなのに、知らない間にモノローグになってしまった。リフレクションです。
河合:心の中のダイアローグになったんですね。
鷲田:自分とのダイアローグ、あるいは書物とのダイアローグ。でも哲学って、もっとクリニカルなかたちがあったんだからと。

 臨床哲学が今までの哲学とどう違いどういうものかを理解するには、高橋源一郎編『読んじゃいなよ!』岩波新書に書かれている、鷲田清一の言葉が参考になる。

 哲学って二種類あるんです。いや、ほんとうは三種類になるんですけど。一つは僕らが翻訳語、日常使わない翻訳語の概念を駆使しながら、ヨーロッパのいろいろな哲学者の書き物を勉強する、そしてその歴史を探るっていう、大学の哲学科でやっているような哲学。(略)
 それからもう一つは、(略)「そば打ちの哲学」とか言うでしょう?そばづくりの職人さんが、俺は何にこだわってきたかっていう。あるいは商人の哲学。(略)これはある時には、これだけは譲れない一番大事なこと、そういう意味でもあるし、他方ではものすごく軽く方針というぐらいの意味でもある。
 で、もう一つ、三番目に、(略)ひらがなで「てつがく」って書くものがあると思ってます。まだないけれども、僕は日本でひらがなのてつがくを作ろうとしてきました。哲学カフェもそのためにあるんです。(略)哲学なんか知らなくても、毎日大事にしている言葉、そして当たり前のように使っている言葉が僕らにもあるじゃないですか。それにきちっと問いかけて、ヨーロッパの人が彼ら自身の言葉でやろうとしたことを、日本語でやってみないか?というのが僕の言うひらがなのてつがくです。

 つまり臨床哲学とは、この三番目のひらがなの「てつがく」のことなのかなと思った。その現場となる哲学カフェについては、臨床とことばの中では以下のように説明されている。

鷲田:いまヨーロッパなどでは、「ソクラティック・ダイアローグ」という運動が起こりつつある。つまり、自分の中で反省する哲学ではなく、人と対話するなかで或る論理を紡いでいく、そっちのほうに哲学の軸をもう一度移し直そうという運動がありまして、僕の同僚の人で臨床哲学の研究室の方がやっています。これはケッサクなんですけれども、学者の間でやるのではなくて、企業へ行ったり、いちばん面白いのは刑務所へ行って、それこそ幸福論なんかをディスカッションするわけです。(略)日本では哲学カフェと称しまして、いろんなお寺へ行ったりするんですよ。

 まだ私は参加したことがないけれど、現在、哲学カフェはお寺だけでなく、色々なところで行われているという。実際の哲学カフェの進め方は、鷲田清一著『哲学の使い方』岩波新書に紹介されているのだが、ここでは哲学専門用語を使わず、普段のことばを使ってテーマについて自由に語り合うという。

哲学カフェに定型はない。何について議論するかも、集まった顔ぶれでその場で決める。そしてテーマに即して、だれかがまずじぶんの経験を、そしてその解釈を語り出したあとは、そのれを糸口に延々二時間から五時間くらい、あれこれ話しあう。ルールはいたってシンプルで、たがいに名を名乗るだけで所属も居住地も明らかにしない、人の話は最初から最後まできちんと聴く、他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説をしない、この三つだけである。

 ルールはシンプルと言うが、これはなかなか難しいというか、少なくとも私は意識しないとこのようには振舞えないのではないかと感じる。恥ずかしながら私にとって誰が語ったことばかというのは結構重要だ。自分より目上の人が言ったこと、社会的地位の高い職に就いている人が言ったことには、ついつい無条件に同意してしまいがちになる。人の話を遮らずに聞くというのは、常日頃から個人的に気を付けていることなんだが意外にできてないこともある。そして、自分の意見を言うときに、他人の著書や意見を引きあいに出して長々と演説しないという点は、今後肝に銘じておこうと思う。
 そして、何よりもこの議論の始まりが、個人の経験の語りから始まるというのが大切なのだ。議論のテーマは、社会問題として一般化されている事柄ではなく、個人の経験、個人的なその人だけが知っている自分だけの経験、そこを始まりとすること、それが臨床の持つ意味ではないかと考えた。




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