見出し画像

自分の中心

 河合隼雄の「宗教と科学の接点」岩波現代文庫を読んでいる。そこで、統合失調症の心理療法家であるジョン・ウィアー・ペリーと、トランスパーソナル学会での講演後に、その治療について尋ねてみたところ、ペリーが一番大切だと言ったのは次のような態度だった。

 どれほど妄想や幻覚に悩まされ、あるいは、荒れ狂っている患者さんに対しても、それをこちらが静めようとか治そうとかするのではなく、「こちらが自らの中心をはずすことなく、ずっと傍にいる」と、だんだん収まってくる

 大切なのは患者さんのずっと傍にいること。でもそのとき自らの中心をはずしてはいけないという。では「自分の中心」ってなんだろう。それはどこにあるのだろう。そう考えたとき、まず浮かんだのは、これもまた河合隼雄が色々なところでユングを語るときに出てくる「自我と自己」の図だった。丸い円が描かれていて、その中心点が「自己」。円の中では下にいくほど無意識の世界となる。円の中の上の方には、意識の及ぶ範囲が小さい円で囲まれている。この小さい円の中心が「自我」だ。この図は、ユングが全人格の中心は自我でなく自己であると述べた以下の文章を図にしたもの。 

 自己は心の全体性であり、また同時にその中心である。これは自我と一致するものでなく、大きい円が小さい円を含むように、自我を包含する

 この考えを用いると、自らの中心というのは、自我ではなく自己ということになる。でも、自己は無意識内に存在しているから、意識することができない。意識できない「自らの中心」をはずすことなくあり続けるってどういうこと、とまただんだん分からなくなる。

 そして、もうひとつ。「自らの中心」は一点だけなのかという疑問も湧いてくる。そんな唯一無二な中心点が、果たしてひとの中に存在するのだろうか。ひとは、実にあやふやな存在だと思う。

 村上春樹の「一人称単数」の中の「クリーム」では、中心がいくつもあって外周を持たない円という表現がある。

 老人は言った。「ええか、きみは自分ひとりだけの力で想像せなならん。しっかりと知恵をしぼって思い浮かべるのや。中心がいくつもあり、しかも外周を持たない円を。そういう血のにじむような真剣な努力があり、そこで初めてそれがどういうもんかだんだん見えてくるのや」

  中心がいくつもある円。おまえけに外周も持たない円。村上春樹のこの表現が人格を表現しているとするなら、その中心はいくつもあることになる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?