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コロナ時代の読書

 3月ごろから家で過ごすことが多くなった。もちろん新型コロナウイルスのためだ。さて、この時間を何に使おうかと考えたとき、本でも読もうかなとなり、例年よりは読書時間が伸びている。

 あなたが、もっとも多く読書したのは、いつ頃だったと思いますか?
 それは軍隊時代でした
 それは刑務所時代でした
 それは病院時代でした
 それは学生時代でした
寺山修司「幸福論」角川文庫

 このままいくと、わたしは「それはコロナ時代でした」と答えることになりそうだ。

 つまり、読書は「人生を何かによって閉ざされているときの代償体験」か、あるいは、「しばらく人生から、おりているときの愉しみ」だったのである。
寺山修司「幸福論」角川文庫

 たしかに今「コロナによって閉ざされ」ている。感染者が増えてくると気軽に外食することもできない。休日に街に出たり、旅行をしたり、友人と会うことができない。離れて住む子どもたちや、両親に会いに行くこともできない。なんの予定も入ってないゴールデンウィークやお盆休みなんて今までなかった。

 そこには、考えるための生活の余白はたっぷりある。しかし、その余白は、行動を停止することによって生まれたものであって、それ自体として思想的体験とよべるようなヴィヴィッドなものではなかった。
寺山修司「幸福論」角川文庫

 この思想的体験というものが何かを私は正しく理解できていないように思う。でもあえて自分のことばで説明を試みるなら、街に出て人と触れ合い、会話して、時を共有し、ともに感情を高ぶらせ、腹を立て、憎しみあい、傷つけ合い、裏切られ、許し合い、大笑いし、涙を流す。そうした地を這うような泥臭い日常から見つけ出す真理みたいなものの方が、読書から得られたきどった体験よりもはるかに重要だということか。
 仕事もリモートだのなんだので、同業者と会って情報交換することもなくなり、出入りの業者と世間話の方が多いような面談をすることもなくなった。その分、仕事時間は短くなり、家に帰る時間は早くなり、それはそれで働き方改革にもなり満足度は高いのだが、本当にこれでいいのだろうか。

 書物はあくまで、「時」という名の書斎と、「教養」という名の椅子、それに少しばかりの金銭的余裕をもちあわせている人生嫌いの人たちに、代理の人生の味わいを教えてくれるだけである。
寺山修司「幸福論」角川文庫

 余白だらけの生活の中、読書を通した体験だけでわかったつもりになってるんじゃないよ、と言われた気がした。

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