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小説 殺意

通り魔による無差別殺人より、身内の殺人事件の方が圧倒的に多いらしい。それを知った時、奈緒は妙に納得したものだ。私は行き交う人を突然刺したりはしない。ナイフを振りかざす相手は、自分、もしくはあの人しかいないとー。

「奈緒ちゃん、今日の夜はおでんよ」行きがけに母、洋子に言われた言葉を思い出し、奈緒はまた、ため息がでた。目の前の景色も歪んで見える。

「どうしたの、顔色が悪いみたいだけど」

横でハンドルを握る俊哉が心配そうに言う。

「大丈夫、イタリア料理だっけ。連れていって」

今日は2回目のデート。俊哉とは、同じ課で働く由美のツテで知り合った。資産税課で、歳は私より2つ上の29歳。結婚を意識する年齢でもある。今度は母も気に入るはずだ。そう奈緒は踏んで、彼に好まれそうなニットの白いワンピースを着てきた。今日のために購入したのだ。

車が駐車場に着いた時、スマフォが震える。

「火傷しちゃった。悪いけど早く帰ってきてくれない?」

母からだ。火傷といっても、どうせ大したことないんだろう。この間も怪我をしたというので慌てて帰ったら、指をちょっと切って絆創膏を貼っただけで、本人はピンピンしていた。デートと感づいて止めに入っただけだ、きっと。

それでも、トマトクリームパスタを食べている間、奈緒の頭から母親のことが離れることはなかった。本当に大きな火傷だったらどうしよう。おでんを温めている時に、鍋がひっくり返ったのだろうか。

「ごめん、やっぱり、もう帰らなきゃ」

「え?もう」

奈緒は手渡されたメニューを戻した。デザートを食べながら、俊哉の話をおだやかに聞く自信もなくなってきたのだ。

俊哉が怪訝そうな目で奈緒を見る。それはこないだのデートの時と同じ目で、もっというと、その前も、その前の前に会った男の人からも、奈緒が向けられた目でもあった。

ー・ー・ー・ー・ー・ー

「あら、おかえりなさい」

洋子の姿をキッチンで見つけた時、奈緒は全身から力が抜けるのを感じた。

「はやかったじゃない。パスタやピザじゃ物足りなかったでしょ、おでんあるわよ」

右手の甲に、湿布のようなものを貼っている。たったこれだけのために、自分は呼び戻されたのだ。

「お腹いっぱいだから」

「そう、じゃあリンゴだけでも食べる?」

返事を聞かぬ内に、洋子は冷蔵庫からリンゴを出し、火傷したという右手で皮をスルスル剥き始めた。

「火傷、大したことなかったんだね」

「そうなのよ、鍋が重くて、こぼしちゃったんだけど、直ぐに冷やしたのが良かったみたい」

洋子は、奈緒の顔を見ることもなく、まな板の上でリンゴを切り出す。

「そういえば、聞いたんだけど。あなたが会っている俊哉さんって、末っ子で長男なんだってね」

「…え?」

奈緒は、洋子の発言の意味がすぐに理解できなかった。自分が外で男の人と会っている、それには気づいていて、だから夕食はおでんだと好物を伝え、更に火傷をしたと、引き戻す。そこまではわかるが、何故相手の名前、ましてや個人情報まで知っているのだろう。

「お母さん、心配でね、さっき、由美さんに聞いたのよ。由美さん、その人とは大学が一緒なんですってね」

あっ…。奈緒は冷蔵庫を見上げた。

ドア面に、名簿が貼ってある。同じ課のごく数人の電話番号があり、もしもの時に貼り付けてあったものだが、まさかその「もしも」をこのような形で利用されるとは。奈緒は驚きと、その母の執拗さに、全く言葉が出なかった。心配を盾に何をしても良いのだろうか。おとなしい由美のことだ、母の剣幕に耐えられず、答えてしまったのだろう。

「お母さんはね、次男だったら何も言わなかった。でも長男で、それもお姉さんが2人もいるんでしょ、絶対やめたほうがいい。結婚したら苦労するから」

「…別に結婚なんて。まだ、付き合うかも分からないし…」

「じゃあ、今の内にやめておきなさいよ」

洋子はそう言うと、りんごを2切れ置いた小皿を、奈緒の前に出した。添えられた銀色のフォークが光る。

もはや食べたいのかどうかもわからないリンゴだが、食べないのも悪い気がして刺して口に入れると、甘ったるい密の味がジワジワと広がる。

「お風呂入るでしょ」

そういって風呂場に向かう洋子の背中は、弾んで愉快そうにも見える。

あの背中に、このフォークを突き刺したらどうなるのだろう。奈緒は、リンゴがなくなったフォークの先を見つめた。いや、フォークじゃだめだ。こんなんじゃだめだ、だめだ、もっと鋭利なものでないと。

立ち上がり、まな板に置かれたままの果物ナイフを手にとる。鋭く、細い刃先。

このままだと、また潰される。いろいろな手を使い、自分に引き戻し、また私から大事なものを引き離すんだ。

廊下に出ると、ジャーと水を流す音が聞こえ、それは一歩進むごとに、どんどん近づいてくる。空いた浴室のドアを除きこむと、陽子は奈緒に背中を向け、しゃがんだまま、床をスポンジでこすっているところだった。

ーやるなら今しかない。

奈緒は、ナイフを持つ手に力をこめた。

ー・ー・ー・ー・ー

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