生きることの意味について

 中学生の時、「生きる意味」について良く考えていた。
 23歳になってもそれは変わらない。苦しいことがある度、繰り返される日常に気が狂いそうになる度、「生きる意味」について考える。

 考えた結果、「生きる意味を求めるのは楽しい」という結論に至るのだが、今、苦しい人にそれを言ったとして、あの時の中学生の自分に言ったとして納得できるかどうかと言われると微妙だ。

 だから別の回答を用意することにした。

 例えば、死にたい人がいて、その人が今、生きる意味について答えを求めているとする。その人に向けて言うならば
 「生きる意味とは、人間関係そのものだ」

と、僕は言うだろう。何故か。

 そもそも漫然と「死にたい」と思っている人の根本は、安定した心の欠如だと思う。心の形が円形だとして、それがピザ1枚分欠けている。「何となく死にたい」という人の気持ちを整理していくと、人間関係が上手く行っていなかったり、同時に、素晴らしい人間と出会ってなかったりする。素晴らしい人間とは欠如を埋めてくれる存在だ。漫然と「死にたい」と思うのは、何かが足りていないからだ。人生におけるスパイス。スパイスとは人間関係で言う理想的な他者だ。
 昔の話だが、筆者は「死にたい」と慢性的に考えることによって、まるでシンデレラ症候群のように、救ってくれる人がいつか現れるという希望を抱いていた。これも理想的な他者の欠如だ。

 では、明確な理由があり、「死にたい」と思っている人がいるとする。これも他者の欠如からなる。大体の問題がお金で解決するとすれば、金をくれる他者が足りないということになる。愛が欲しいのであれば愛をくれる他者が必要だ。いじめられているのであれば、いじめから解放してくれる他者が。内的に死にたい、つまり自分の欠点のようなものがありそれについて、死にたいと思うのも、そもそも欠点が浮き出る。欠点が欠点となる人間関係が問題で、それは問題にならない人間関係が足りないということになる。

「生きる意味」は近くにいる他者に依存している。悩みを打ち明けられない他者がいないことは死に直結する場合もある。

 とは言うものの、どこまでも満たされない自分というのは存在する。
そこで昔から宗教で自殺を禁じたり、他者の欠如を神という存在で埋めて居たりする。

「生きる意味がない」と人が言う時、他者の欠如を前提としていないか。それも理想的な他者という存在の欠如を。

 これというのは「生きる意味」という点で内面、自己に矢印を向きながらも、回答は自己ではなく、他者に矢印があるという点で矛盾しているのである。なんとなく理解できるだろうか。矛盾しているから回答はでない。

 では他者の欠如はどうすれば良いのだろうか。これについては非情に難しい。解決策としてはイマジナリーフレンドを作るなどがあるが、あまり現実的ではない。自分を俯瞰してみて、自分を他者として捉えるという方法を筆者もやったことがあるが、ただの慰めにしかならない。そして他者の欠如はどこまで行っても、どこまで満たされていても発生するものだ。だからこそ解決策はない。ただ、欠如がある。それは人間関係によるものだと理解できれば、対処できることも多い。例えば、自分が愛されないから生きている意味がないと考える。ならば、どこまでも行って、愛してくれる人を探せばいい。今ある人間関係に期待はできないかもしれないが、未知の人間関係に期待はできる。それがダメだったら次にいけばいい。そうすれば、どのような形であれ、愛してくれる人は見つかる。

 これが簡潔な僕の「生きる意味」だが、そうは言うものの、ちょっと主題がずれている。私は内面、内的なものに生きる意味を求めている。と言う人もいると思う。

 生きる意味を内的に求めるとするならば、答えはとんちのようだが
「生きる意味とは、生きる意味を考える時間を無くすため」に他ならないと思う。
 「生きる意味」を考える時は、大体苦しい時だ。そういった時間を無くせばいい。苦しい時間を無くせばいい。それが明確な対象があるのならば、そこから逃げればいい。例えば、仕事が辛く、生きる意味を求めるのであれば、仕事を辞めればいい。学校が辛いのであれば、学校をやめるか、不登校になればいい。「生きる意味」について考える時間を無くすのが先決だ。何か夢中になることを探し、生きる意味を考える時間を無くす。それが生きる意味になる。


 以上が筆者が考える「生きる意味」だが、どうだろうか、多少の解決になるだろうか。こうやって「生きる意味」を求めるのは楽しい。これが今の僕の生きる意味だったりする。

 頭では納得が行っても、それが身体に浸透するまでは時間がかかることが多い。僕の言ったことを吟味して、違うと思ったら、思ったで「生きる意味」について考えてみて欲しい。

 また筆者は、自分の生きる意味を考えるのではなく、他者の生きる意味を考えてみたので、このような文章が書けたのである。これは発見でもあった。ミクロではなくマクロで考えられたからある程度の結論が得られた。そのことに感謝をしたい。

 死にたいと思った時、まず足りないのは他者の所為にすることだ。他者の所為にすればいい。自己の責任だとしても、他者の欠如、或いは特定の他者の所為にすればいい。そうやって一日、一秒でも長く、この文章を読んだ人が生きてくれることを願う。

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