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AIと創造性:人間に「本物志向」がある限り、創作者は筆を捨てなくていいんだよ

 前回の記事で、ChatGPTに創造性を発揮させるための特化されたモジュールは組み込まれてないことを述べた。ChatGPTをはじめとするAIの答えに創造性を見出したならば、それは見出した側の創造性でもある。しかしながら、じゃあ我々はAIが作ったモノも人の作ったモノと全く同じように扱えるかといえば否である。そしてそのことが、AIにお株を奪われたと嘆く多くの創作活動に励む人々にとってのエールになるかもしれない。今回はそのことについて述べる。

やっぱりブランド品は本物に限るし、生写真・生原稿は価値が高い。

 私たちは不思議なもので、物理的には同じもの、知覚した情報自体は同じものでも、その作者にオーソライズされたものや手作り、直筆をありがたがる傾向がある。みなさんもきっと身に覚えがあるはずだ。何となく食べている料理や食品も産地の説明やら製法のこだわりを聞かされるとなんか美味い気がしてきたり、職人の手仕事で作られた工芸品は大量生産された品より優れている気がする。こうした傾向を裏付ける心理学研究もある(Frasier, Gelman, Hood & Wilson, 2009; Newman, Diesendruck, Bloom, 2011)。


一昔前にはブランド物のかばんの偽物が横行してその見分け方が注目された。別に鞄として使う分には偽物であっても特段困ることはない。耐久性など、本物に及ばない側面もあろうが、それは値段相応の品質なのだからしょうがない(本物と同じ価格で掴まされたのなら大いに怒るべきだが)。その一方で、アイドルの生写真を大事にする人もいる。仮に全く同じ人物が同じポーズと衣装と背景でヤングマガジンのグラビアに掲載されていたとしても、フィルムから直接焼いた生写真には一段上の価値を見出す。サインだって自分で用意した色紙に直筆してもらうのが大事であって、まったく同じ線のパターンを描いていても、それがインクジェットプリンターによって印刷されたものならそれはインクジェットプリンターさんのサインなのである。こうした傾向は「魔術的伝染」と言って心理学の研究対象とされている(特に偉人や有名人が所有していたものについては「セレブリティ伝染」とも言う)。
 思えば園児だったころ、イトーヨーカドーで「超電子バイオマン」(スーパー戦隊)のレッドワンのサインをもらったことがあって、当時はレッドワンが目の前でサインを書いてくれたことをとても喜んだ記憶がある。このサインのインクにもバイオ粒子が付着してるんじゃないかとか、そうなるとバイオハンターシルバに私も破壊されてしまうんじゃないかとか、そんなことを思っていた。思っくそ「バイオマン」とユニット名でサインが書かれていたけども。40年近く経過した今ならそんなサインはありがたがらないだろうが、もしこれが実際にバイオマンの撮影でレッドワンを演じたスーツアクターさんのサインだったら、あるいはレッドワンの中の人、郷史郎を演じた坂元亮介さんのサインだったなら、(たとえ役名「郷史郎」ではなく「阪本良介」と書いていたとしても)今でも家宝になったことだろう。特撮ヲタというのも面白いもので、フィクションだと分かっていても、また、変身前と後で別人だと分かっていたとしても同一人物だとすんなり了解して楽しむし、大人のヲタほど変身前の俳優さんだけでなく、変身後のスーツアクターさんにも憧れの目を向ける。このあたりはまた認知科学としても面白いのだが、それはまた別の機会に触れる。

人は良くも悪くも手間暇かけたものにも価値を見出す

 人は「本物」を大事にすることに加え、「時間をかけたもの」にも価値をつけることがある。近年「タイパ(タイムパフォーマンス、時間対効果)」という言葉が出てきている一方で、これは一見すると奇妙に思うかもしれない。おそらくは「自分の時間」を大事にするからこそ、他人が自分のために時間をかけてくれたことにもまた感謝や敬意をこめたくなるのだろう。ドモホルンリンクルが一滴一滴見守られながら作っていると思うとありがたい気がするのもそういうことだ。逆に同じ結果、同じ料金でも他人に頼んだ仕事が早く終わると不満を感じるというのもよくある。パソコンのトラブル対応、水回りのトラブル対応などは、やって来て3時間かけて解決した技術者よりも15分で解決した技術者の方が優秀なのに、同じ料金を取られることには納得できなかったりする。学校の勉強も、同じ内容を習得できるなら90分13回で達成できた方が効率が良いだろうに、厚生労働省は何がなんでも15回講義させることや、決まった長さの時間で予習復習させることにこだわるわりに、学ぶ内容には特段言及してこない。時間をかけたものは良いものという思い込みがあるし、なまじ時間をかけてしまうと「無駄だった」と失敗を認めて損切りすることが難しくなる。広い意味でのサンクコスト(埋没費用)への囚われであろう。だが、それがゆえに、人は即席にできたものにはありがたみを感じず、生みの苦しみを乗り越えた先で生まれた創作物に価値を置こうとする。作者へのリスペクトがこういう部分に込められるのかもしれない。
 #個人的には早くて楽に良いものが作れるならそれはそれでも良いとは思っている。画像生成AIのプロンプトを調整することも立派な技術だし、それにはそれなりの時間と労力、試行錯誤もあるだろう。従来の創作と同列同一の線上で評価するのは妥当ではないだろうが。

AIが生み出す飽和とそこから見出される人間の作家の強み

 Twitter(X)などをやっているとタイムラインにイラストを投稿している人に少なからず遭遇する。つながっている人の中には実際に漫画を描いている人、商業誌から同人誌までさまざまなところで描いている人がいる。AIが不気味さのない綺麗な絵を描けるようになってからは、もともとイラストを描いていない、そういった技能を身につけていない人がAIに指示して絵を上げるようになった。生みの苦労を経験している人々からすると面白くない話だし、それを「創作物」と呼ぶことに抵抗がある人もいる。何しろ、AIイラストもまた、すでに人間の創作者が描いた映像情報を学習して作るものだから、それは別の誰かが編み出した画風を、プログラムに学ばせて、手をほとんど動かさずに描かせたものなので、「自分の作品です」と呼んでいることには違和感を感じるのも無理はない。発展途上の自分が手で描いた絵より、1週間前までド素人だった人がAIに書かせた絵の方がきれいだと言われたらいい気分はしない。そんなわけでAIでイラストを描かせる人が増えたことで、絵の技術をこつこつ磨いてきた人たちの意欲を損ねるようなことがあったりする。

 問題はそれだけでなく、作家探し、作品探しの面で影響が出ている。イラスト投稿サイトでAI作品が増えた結果、同じような画風の、同じような構図の絵が爆発的に増えてしまう。AIで作らせた作品を避けたい人のために、AIで作った場合にはタグに「AI生成」と付けるしきたりもある。だが面白いもので、AIの絵は巧いには巧いのだが、「AIらしい巧さ」があって、検索結果をみると素人でもAIっぽい絵というのは見分けがつく。一昔前は「指が正しく描けない」「文字がうまく描けず、謎の文明の記号になってしまう」といった特徴もあった。今は幾分か解決できているようだが、それでも、光のさし方や色使いなどにはまだAIっぽいクセが表れる。
 そんなわけでイラスト投稿サイトで検索をかけると、素人がAIに作らせた同じような構図の同じような画風の絵が多数でてくる中で、かえって人の手で描いた個性あるイラストが目立ってくる。作家の側でもAIっぽくない絵に仕上げようという気持ちも働いているのかもしれない。AI作品がはびこった結果として、「ありきたりなもの」がAIによって増幅され、人の手でそのありきたりから脱しようとする「創造的なもの」が生み出されポップアップする。

 創作やら同人活動やらの話で言えば、久保(川合)南海子先生が「推しの科学」という新書でこの話題を掘り下げている。その中ですでにある創作作品の登場人物についてifの展開を創作する「二次創作」の活動に注目し、その創作過程を分析している。例えば本来ライバル関係のアンパンマンとばいきんまんが、相思相愛の関係にある世界線。この本では二次創作の界隈でこれがどうして創作されるのかが解説されている(ばいきんまんがアンパンマンにちょっかいを出すのは子どもにありがちな好意の裏返しという解釈だと言う)。こうした二次創作も、一定の需要があるとコミュニティとして成立し、そういう分野として開拓されていく。人によって「刺さる」展開というのがあって、そこに向けて作家は二次創作を作っていく。

 これは漫画の話だが、イラストにおいても、人によって「刺さる」画風は違う。例えば、「うる星やつら」のラムちゃん(例えが古いか)、「鬼滅の刃」の禰豆子ちゅわ~ん(汚い高音で)、「ONEPICE」のナミすぁ~ん(ぐるぐる眉毛で)を描くにしても、きわどい衣装で体型がオリジナルより強調され、テッカテカの光沢をした写真的でセンシティブな絵柄が好きな人もいれば、そういうのがくどくて嫌だと言う人もいる(私は後者)。余計な情報や大げさな表現を取り除いたシンプルで平面的、漫画的な画風が好きな人もいれば、それでは物足りないという人もいるだろう。ただきれいなだけ、巧みなだけではない、「人のツボを押せる絵」は今のところ人間じゃないと描けない。そもそもそうしたツボ、需要を読み取ること自体がまだAIイラスト生成にはできないし、人間の作家こそがそうしたツボや需要を開拓するものだ。キティちゃんみたいな「かわいい」と、「ちいかわ」みたいな「かわいい」をノーヒントでAIが使い分けて生み出すのは相当先の話だろう(「かわいい」もまた難しい感性で、これまたそれ自体研究の積み重ねがある。また別の機会で触れる)。

 そんなわけで、生成系AIがさまざまな創作の分野で登場してきているが、それまで手づくりの創作を重ねてきた人が立場を失うのか、というとそうでもない。人が研鑽の時間を積み上げて生み出したものにはありがたみを感じるのが人間の性だし、何より人間のツボや癖(へき)を読み取ったり、開拓したりできるのは今のところAIよりも人間の方が早い。AIの学習能力が向上してその差やラグは段々短くなっていくのかもしれないが、追い抜かれるという事は当面ないだろう。創作者が作った、描いたものはきっとAIより早く誰かのツボや癖に刺さっている。


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