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「レンタルなんもしない人」さんを心理学研究目的でレンタルしました

 知っている人も多いと思うが、「レンタルなんもしない人」というひと一人分の存在のみを貸す(何か行動を起こすことはなく、簡単な受け答えや飲食程度のことのみ行う)サービスがある。その話を聞いた時点ですでにもう「面白いアイデア」と思い強い関心をもっていたが、今回、心理学の研究材料として利用させていただく運びとなった。

 私の利用用途は心理学実験。具体的にはパーソナルスペースと呼ばれるものの実験だ。パーソナルスペースはいわば人と人との快適な距離感である(人に限った話ではないが)。コロナのこともあって一躍日常語となった「ソーシャルディスタンス」もそうだが、他者とどのくらいの距離をとってコミュニケーションをとるかはさまざまな要因によって変わることが知られている。お互いに向き合っているかどうか、目が合っているかどうか、同性か異性か、知人か他人か、閉所か開放的な場所か・・・。古典的な心理学現象でその知見も多岐にわたる。最近見た中で面白いと思ったのは、友野・古山・三嶋(2017)による人同士の間隙、その向きなども要因に入れた検討を行った研究だ。

 このパーソナルスペースという話にレンタルなんもしない人(以下「レンタルさん」と呼称)をどう使ったのかと言えば、当然レンタルさんと他の参加者との距離感なわけだが、詳細についてはここではまだ伏せる(近い将来学会大会等で発表することにはなる)。個人的には面白いものが見られたと思っている。


 当日は午前中からわざわざ大学まで来てもらい、パーソナルスペースの実験と、学生の前での紹介(これは私がやった)、質疑応答(これはレンタルさんのパート)など行った。以前から、「ひと1人分の存在を貸す」というそのシンプルなサービスの着想自体も面白いと思っていたし、twitter(X)で都度さまざまな業務を発信してくれるが、どの事例もユニークで面白い。というか、ご本人が面白いと思う依頼を受けるという傾向があるのだ。無料の時期もあれば、1万円、3万円という固定料金のころもあり、2023年11月時点ではこちらの言い値を受け取る形をとっている。話を伺うに、支払いは成功報酬型(終わってから値段を考えて渡す)の依頼者が多いようだ。しかし、私の場合はまず申し込みの時点で場所、時間、内容、謝金額まですべて伝えた上で打診した。なお金額は15,000円だ。他の外部講師に1コマ講演を頼む時の標準金額がこれだったからなのだが、午前・午後で30~40分ずつの質疑応答、心理学実験の協力と結構な拘束時間と業務量だったので、結構こき使った形になってしまったかもしれない。交通費と食事も出すのが条件だが、この日のレンタルさんは私の依頼の後にドカ食いする依頼が控えていたので、昼食は本当に少食だった。twitterでも写真を挙げていて、忙しい時のファルコンランチみたいな量だったので、ちょっと心配になった(たしかにその後の依頼はラーメンをたくさん食うのに付き合う依頼だったようなので、無用な心配であった)。

 講演というか質疑の際には、学生からの質問に答えられるものに答える、という形で答えてもらった。今回の絵で気づくかもしれないが、当日もぶれずにいつもの服装でご登壇いただいた。そのせいもあってか、今回待ち合わせまでに気づかれて学生に話しかけられたりした模様。講演に参加した学生の内3分の1くらいはあらかじめレンタルさんのことは知っていたようだ。とはいえ、3分の2は知らなかったので、何を聞いていいかよくわからず、変な質問も多かったが、1つ1つ公序良俗、コンプライアンスに反しない範囲でいろいろと語ってくださった。個人的はドラマ化の際のキャスティングの話はちょっとした芸能界のパワーゲーム的側面が垣間見ることができ、すごく得した気分になった。

 来てお話をしていただいたのは、私の研究の目的ももちろんあるのだが、レンタルさんが受けた依頼やその結果に、心理学からみても大きな意味を持つものがあると思ったからだ。1つは、ステークホルダじゃないからこそできる自己開示があるということ。親しいからこそ言えないもの、気を使ってしまう、使わせてしまうものがあり、そういった重荷から離れて自己開示したいという場面が実際にはある。人の心に寄り添うというのが心理学のお仕事のように思えるが、あえて距離を取るのが良い場面もあることを知るいい機会だと思った。
 また、これまた心理学の古典的話題である社会的促進・社会的抑制にもつながる。見られているというそれだけで、サボりにくくなる、安心する、というのは実際に経験的にはある話だが、その協力を遠慮なく頼むことができる。これが知り合いだったりすると、申し訳なかったり、気恥ずかしかったりするが、レンタルさんは「そういうお仕事」なので遠慮が要らない。レンタルさん自身も、そういうさまざまな場に置かれた時に、その状況に合わせられるので、だいたいどんなところに呼ばれても、それなりに楽しめたり、場の雰囲気にあった振る舞いができるらしい。よって、頼む側も「巻き込んでスマン」というプレッシャーが小さくて済む。

 また、特によくある依頼として、「話を聞いてほしい」というのがある。とにかく話し相手になり、受け答えするだけでいい、干渉までしてほしくない、という時にレンタルさんの存在は非常に丁度いいのだ。これはまさに生身の人間の「ラバーダッグデバッグ」ではないか(無色透明な感じのあるレンタルさんにおいては、尊敬する人の投影を行う伊集院式思考法にはならないだろうが)。

 と、まあこのように「ただいる」ということをサービス化した人なわけだが、最初から「なんもしない人」だったわけではなく、職業人として会社勤めもこなしていった経験もある。周りのエスカレートする要求や期待に合わせることへの気疲れや、集団の中では誰かが誰かに言いがちな「何かやれよ」「何もしてないな」という圧と向き合った経緯もあり、そういった疲れや圧の少ない生き方を模索した末に至った境地が「なんもしない人」だったそう(そのあたりの経緯は著書の中でも記述がある)。

そう聞くとなんだか楽な方緩い方に逃げているようにも見えるが、話を聞く限り、依頼者の不利益にならない配慮はしっかりされているし、倫理的な線引きもあるし、怪しい依頼、危ない依頼への嗅覚も鋭い。何か芸能事務所にでも所属していれば、そうしたことはマネージャーが考えてくれるだろうが、個人でやっている以上はすべて自分で見極めなくてはならない。決して簡単なことではない。私がお話を聞いて特に印象に残ったのは、受けた依頼をtwitter上で紹介する際に、それが原因でより派手な依頼、より面白い(場合によっては危ない、攻めた)依頼をしなくてはいけないとユーザー側が思い込み、本来必要としている人が遠慮してしまわないよう、情報発信に気を使っているということだった。たしかに、派手な企業案件や、目を惹く危ない案件の話の方がバズるだろうが、それが行き過ぎてしまわないようバランス感覚をもって臨んでいる点に美意識を感じる。それに「なんもしない」の線引きも杓子定規に、機械的にやっているわけではなく、人として何かすべき時には状況をみて動くこともあろう(人命救助の状況など)。

 こうした話はまた次の年に新しい受講者に聞かせたいと思う一方、ルーティン的な依頼になってしまうとおそらく優先順位は下がってしまう。なので、またマンネリ化しないような別の形で依頼できないか、こちらも工夫が必要になってきそうだ。なんということか、なんもしない人のおかげ(せい)で、逆にこちらが能動的になってしまっているではないか。


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