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【日常茶飯事】朝日に輝く雲の海

あまと〜さん撮影

それは、景色の、ほんの一片に過ぎません。

そんなものかもしれない。

我々は、自分の目線でしか、この世をとらえることが、できないんですよね(^^;

広い世界の中で、天文学的な長い時間の中の、ほんの一片をみているに、過ぎないのだと思います。

見る側と、見られる側が、逆転すれば、違った真実があるのも、当然のことであろうって、気がしますが。

勝者が間違っていて、敗者が正しいことも、99%の賛成が誤りであり、1%の反対が正しいことも、あるのではないでしょうか?

話は変わりますが、以前、カナダ出張中に、ふと思ったことがあります。

地球の裏側に行っても、ここの日本の生活は、全く変わらずに続いているのだろうなと・・・

自分は、その地球の裏側で、昼夜は、逆になるのですが、寝起きして、仕事を続けている。

そして、一ヶ月後には、何もなかったように、また、日々の生活に戻っていきます。

自分が、日本に戻った、その時でも、カナダでは、多くの人で、活気にあふれていることでしょう。

なんか、とてつもなく大きい地球の上で、本当に、限られた場所で、限られた人との間で、生きているんだなあと、なんとなく思っていました。

そして、日々の生活に、無事戻ることを、祈らずにはいられない感覚に、見舞われました。

なぜなら、平凡にみえるその生活が、大切なものだと思ったからかもしれないのでしょう、ね(^^)

以前、ベストセラーになった「もし世界が100人の村だったら」に載っていた言葉を、ここで紹介しておきます。

「世界がもし100人の村だったら」池田香代子(著)C.ダグラス・ラミス(訳)

「80人は標準以下の居住環境に住み

 70人は文字が読めません

 50人は栄養失調に苦しみ

 1人が瀕死の状態にあり

 1人は今生まれようとしています。」

これを踏まえて考えてみると、もし、銀行に貯金があり、お財布にお金があり、家のどこかに小銭が入った入れ物があるなら、自分は、世界の中で、もっとも、裕福な上位8%のうちの1人になるってことです。

1人は、大学の教育を受け、そして、たった1人が、コンピューターを、所有していることにもなります。

そうなんですよね。

私は、100分の1人という幸運な環境で生活しているんだってことを、改めて実感させられます。

その生活は、世界の、ほんの一部分であり、一片であるんだけれども。

今日、離婚する人もいれば、結婚する人もいます。

今日、ガンの宣告を受けた人もいれば、プロポーズされた人もいるでしょう。

今、この瞬間に、この世を去った人もあり、また、つい1分前に生まれた人もいるはずです。

世界は、“ああ無常”でもあり、また、多くの歓喜にも、あふれているんですね(^^)

それが、味わいのある世界を構築しているんじゃないかって、気がしています。

だからこそ、今、この瞬間に、感謝します(^^)

眼下に広がる雄大な景色に、感動☆するみたいに、ね。

【今日の短歌】
「世間よのなかは霰よなう 笹の葉の上への さらさらさつと降るよなう」
(『閑吟集』より)

「欅木の黄葉のなかを一葉一葉丹念こめて散りゆく落葉」
(北沢郁子『満月』より)

「もやの中ひかりて落ちるいくすじの分れて再また会う光いくすじ」
(中村幸一『あふれるひかり』より)

「羆(ひぐま)の身ゆるりと返りこなた向く花の散り込む檻の片隅」
(小林サダ子『廻廊』より)

「大川を流れる水のゆくすえを都市遊民の夢のあわれを」
(藤原龍一郎『東京哀傷歌』より)

「頭(づ)のうへを蜻蛉つーい、つーい飛ぶ明日といふ日はあさつてのきのふ」
(喜多昭夫『青霊』より)

「仕方なく雲からこぼれて来たような雨いつかやみ春の夕暮」
(大下一真『即今』より)

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