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【宿題帳(自習用)】サンクコスト効果 (サンクコストの誤謬)


浅岡省一さん撮影

サンクコスト効果 (コンコルドの誤謬) とは、お金や労力、時間を投資した結果、例え、今後のコストがメリットを上回っても、同じことを続けてしまう傾向のことをいいます。

サンクコスト効果の落とし穴にはまると、自分に利益をもたらさない不合理な決断をして、さらに深みへとはまり込んでしまいます。

1976年1月、超音速ジェット機コンコルドがついに旅客便の初飛行を果たしました。

しかし、その背後には、英仏両政府による28億ドル (約3,000億円) という巨額の出資がありました。

その時点ですでに、この飛行機は採算が取れないことが明らかになっていましたが、投資家たちは、更に、27年に渡って、この破綻したプロジェクトに、お金を注ぎ込み続けたのです。

この出来事をもとに、コンコルドの誤謬という言葉が生まれました。

この様に、人は、多大な投資を行うと、失敗が明らかな事業でも、継続してしまうことを表しています。

一般的には、この現象は、「サンクコスト効果 (コンコルドの誤謬)」とも呼ばれています。

専門用語のように聞こえますが、サンクコスト効果は、人生やビジネスにおける判断の落とし穴として、私達がよく経験するものです。

退屈な映画を、お金を払ったからといって観続けるといった些細なことから、採算が取れないビジネス上の投資を引き上げずに継続するような重大な問題まで、サンクコスト効果は、さまざまな意思決定に影響しています。

より、分かりやすい言葉でいえば、サンクコスト効果とは、損の上塗りということです。

サンクコスト効果に惑わされると、人は、自分に利益をもたらさない不合理な判断をしてしまいます。

この傾向は、人間の行動心理に深く根差しているため、どんどん深みにはまり込むことなく、論理的に正しい判断をするには、サンクコスト効果が、どう働くのかを理解することが大切です。

また、経済学におけるサンクコストとは、すでに負担し、回収できない費用のことです。

例えば、ビジネスプロジェクトに投資したお金や、恋愛で費やした時間など、もう取り戻せない過去のコストがサンクコストです。

合理的に考えれば、こうしたサンクコストは、私たちの未来に関する決定には無関係です。

なぜなら、そうした判断は、回収不能な過去の投資ではなく、将来的なコスト予測やビジネス目標のみに基づいて下すべきだからです。

ビジネスシーンにおいて、採算が取れないプロジェクトを継続するのは不合理です。

そうならないようにするには、目標管理と進捗管理が重要になってきます。

日々の仕事を見える化して、順調なプロジェクト管理を運用していくために、当事者意識を持って、事に当たる必要があります。

ここで、サンクコスト効果の歴史について確認してみると、サンクコスト効果は、一種の認知バイアスで、情報を誤って解釈し、意思決定に影響を与えてしまう思考のエラーです。

1972年に、心理学者のエイモス・トベルスキーとダニエル・カーネマンが初めて認知バイアスという概念を生み出し、これがサンクコスト効果の研究の土台となりました。

「ファスト&スロー(上) あなたの意思はどのように決まるか?」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ダニエル・カーネマン(著)村井章子(訳)

「ファスト&スロー(下) あなたの意思はどのように決まるか?」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ダニエル・カーネマン(著)村井章子(訳)

「思考力改善ドリル 批判的思考から科学的思考へ」植原亮(著)

「はじめての認知科学」(認知科学のススメ)内村直之/植田一博/今井むつみ/川合伸幸/嶋田総太郎/橋田浩一(著)日本認知科学会(監修)

「コワイの認知科学」(認知科学のススメ)川合伸幸(著)内村直之(ファシリテータ)日本認知科学会(監修)

「ことばの育ちの認知科学」(認知科学のススメ)針生悦子(著)内村直之(ファシリテータ)日本認知科学会(監修)

「表現する認知科学」(認知科学のススメ)渡邊淳司(著)内村直之(ファシリテータ)日本認知科学会(監修)

「感じる認知科学」(認知科学のススメ)横澤一彦(著)内村直之(ファシリテータ)日本認知科学会(監修)

「インタラクションの認知科学」(認知科学のススメ)今井倫太(著)内村直之(ファシリテータ)植田一博(アドバイザ)日本認知科学会(監修)

「オノマトペの認知科学」(認知科学のススメ)秋田喜美(著)内村直之(ファシリテータ)日本認知科学会(監修)

「選択と誘導の認知科学」(認知科学のススメ)山田歩(著)内村直之(ファシリテータ)植田一博(アドバイザ)日本認知科学会(監修)

2002年、カーネマンは、サンクコスト効果をはじめとした、ビジネス上の意思決定における認知バイアスの研究によって、ノーベル経済学賞を受賞しています。

長年にわたり、行動科学者や経済学者は、サンクコスト効果が起きる理由を解明しようとしてきました。

行動経済学の専門家リチャード・セイラーは、サンクコスト効果の概念を初めて提唱し、人間は、金銭を投資したモノやサービスをより利用したがる傾向があると結論づけました。

その後、心理学者のハル・アルケスやキャサリン・ブルマーが、セイラーの仮説を発展させ、雑誌「Organizational Behavior and Human Decision Processes (組織行動と人間の意思決定プロセス)」にサンクコストに関する論文を発表しました。

また、アルケスとブルマーは、一連の実験を行って、サンクコストがもたらす心理、具体的には人間がサンクコストについて考えた場合、判断にどう影響するかを明らかにしました。

そしてその影響は、私たちの予想を超えて大きなものだったのです。

例えば、あるアンケート調査で、実験の参加者に週末にスキーツアーを誤って2つ予約した場合を想定してもらいました。

一つは、ミシガン州への100ドルのツアーで、もう一つはウィスコンシン州への50ドルのツアーです。

研究者たちは、ウィスコンシン州へのツアーのほうが楽しめると説明しましたが、参加者たちの大部分が、ミシガン州のツアーに行くと答えました。

心の中で計算した参加者たちは、例えあまり楽しめないにしても、初期投資のより大きい方の行動を選んだのです。

この事例に様に、サンクコスト効果の背景にある心理は何か?に関して、行動経済学者たちは、サンクコスト効果をもたらす心理学的要因として、少なくとも、次の5つつを挙げています。

①損失回避

損失回避とは、損失を避けようとする傾向のことです。

これは、何かを失うと考えると、同じものを得ると考えるよりも強い心理的影響を受けるために起こります。

例えば、1万円を手に入れれば嬉しくなりますが、1万円を失った落胆はそれを上回ります。

結果として、私達は、なんとかして1万円を失うことを回避しようとします。

例えそれで1万円を、新たに手に入れるチャンスを犠牲にするとしてもです。

サンクコスト効果でいえば、損失を被って嫌な思いをしたくない一心で、無駄な投資に拘り続けることが、損失回避の心理です。

②フレーミング効果

フレーミング効果は、何かを選ぶ際に、その選択肢の提示方法が肯定的か、否定的かに影響されることを指し、これもサンクコスト効果を補強します。

私達がある決断を継続する場合は、それが概ね成功だというように、肯定的にフレーミングします。

しかし、方針を変更する場合、例え論理的には、損を切り捨てることが正しくても、私達は、失敗のストーリーを作り上げがちです。

例えば、あなたがブログキャンペーンを開始したとしましょう。

ところが途中でブログのトラフィックが期待したほどではないため、残りの予算を有料広告に投資した方がよさそうだと気づきます。

しかし、そうするとブログキャンペーンが失敗だったことになると考え、お金を別の目的に使うべきところを、キャンペーンを継続する判断を下してしまうのです。

③非現実的な楽観主義

非現実的な楽観主義は、自分は、他人に比べてネガティブな出来事を経験しないだろうと思い込む心理傾向です。

サンクコスト効果においては、特に、金銭を投資した場合、成功の確率を過大評価し、失敗の可能性を過小評価しやすいことに表れます。

例えば、新規事業に多額な投資を行った場合、現実のエビデンスがどうあれ、いつかうまくいくだろうと思い込みがちになります。

④自己責任の意識

過去のコストに責任を感じている場合、サンクコスト効果の落とし穴にはまる確率が高まります。

他人が下した判断なら、方針転換は比較的容易ですが、あなた自身が投資の決断をしたプロジェクトを中止するのは非常に難しいのです。

というわけでサンクコスト効果は、プロジェクトの発案者や意思決定者などプロジェクトの成功に利害のある人にとって特に厄介な問題になります。

⑤無駄にしたと思われたくない心理

決断を下した本人は、お金を無駄にした罪悪感から、無意味な投資を続けてしまうことがあります。

例えば、チケットを買って映画館に入ったものの、30分くらい経ってうんざりしてきたとします。

しかし、他の観客に自分が、お金を無駄にしたと思われたくない、そして、自分自身もお金を無駄にしたという嫌な気分を味わいたくない、という二つの理由から、残りを頑張って観続けます。

これが無駄を避けようとする心理です。

チームにとって役に立たないソフトウェアツールを、購入したからといって使い続ける場合も同じです。

投資を無駄にしたくないばかりに、ツールにこだわり続けるというわけです。

さて、ニーチェは、「ツァラトゥストラはかく語りき」で、精神の三つの変容について語っています。

「ツァラトゥストラはかく語りき」(講談社まんが学術文庫)フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(作)堀江一郎/十常アキ(著)

精神は、ラクダからライオン、そして、子どもへと変化します。

ラクダは、「汝なすべし」の義務精神の象徴です。

ライオンは、「われは欲す」の自立を意味します。

子どもとは、「無垢であり、忘却であり、新しい開始、遊戯、己れの力で回る車輪、始動の運動、“然り”という聖なる発語」であるといいます。

つまり、「創造という遊戯のためには、“然り”という聖なる発語が必要であり、そのとき精神は己れの意欲を意欲し、世界を離れて己れの世界を獲得する」というのです。

19世紀の科学はラクダ、20世紀にライオンへ変化したが、21世紀に子どもになれるだろうか?

長谷川真理子は、「科学の目 科学のこころ」 である雄が雌に求愛して相当な投資をしている場合、気持ちを切り替えて、他の雌に求愛することはなかなかできないことを、「コンコルドの誤り」といって、次のように言っています。

「科学の目 科学のこころ」(岩波新書)長谷川真理子(著)

「コンコルドは、開発の最中に、たとえそれができ上がったとしても採算の取れないしろものであることが判明してしまった。

つまり、これ以上努力を続けて作り上げたとしても、しょせん、それは使いものにならない。

ところが、英仏両政府は、これまでにすでに大量の投資をしてしまったのだから、いまさらやめるとそれが無駄になるという理屈で開発を続行した。

その結果は、やはり、使いものにならないのである。

使いものにならない以上、これまでの投資にかかわらず、そんなものはやめるべきだったのだ。

このように、過去における投資の大きさこそが将来の行動を決めると考えることを、コンコルドの誤りと呼ぶ。

(中略)

コンコルドの誤りは、人間の活動にしばしばみられる。

元祖のコンコルドもそうだが、作戦自体が誤っているのに、これまでにその闘いで何人もの兵隊が死んだから、その死を無駄にすることはできないといって作戦を続行するのもその例である。

過去に何人が犠牲になったかにかかわらず、将来性がないとわかった作戦はすぐにやめるべきである。」

大陸移動説を提出しウェーゲナーに対し、その当時のアメリカ地質学会の大物の一人は、「大陸が安易に動くなどという考えが許されるならば、われわれの過去数十年の研究はどうなるのか?」といって反対したというが、これなどは、過去の投資に固執する考えを如実に表わした言葉といえます。

ところで、コンコルドの誤りは、人間が動物の行動を解釈するときに犯す過ちであって、動物自体が、コンコルドの誤りを犯しているのではありません。

コンコルドの誤りは誤りなのであって、誤りであるような行動は、進化しないはずだからです。

ではなぜ、人間の思考は、コンコルドの誤りを犯しがちなのだろうか?

この誤りには、何か人間の思考形態に深くかかわるものであるように思われます。

外国のこととは、笑っていられません。

日本では、国家予算の3%を使って、建造した戦艦大和が全く役に立たないで沈んだという教訓があります。

「戦艦大和全記録」原勝洋(著)

軍艦の時代から航空機の時代に変わったのに気づかなかったためです。

しかも、航空機の時代を世界に知らしめたのは、日本軍による真珠湾攻撃だったのに、です。

以前、日本が苦しんでいた中海干拓や吉野川堰など大型投資の多くも、「分かっちゃいるけど止められない」という青島幸男の「スーダラ節」感覚の惰性で続いているだけでした。

四国の観光業界では、「桃栗(ももくり)3年、橋1年」と言います。

本四連絡橋は、開通して1年しか客が来ず、その後は、赤字という歓迎せざる客がやってきたことを揶揄する言葉です。

誤りは、メンツや未練に拘泥せず、早めに改めることです。

因みに、前述の通り、フランスが国策で巨額を投じて開発したけれど、国際的なマーケットでは、誰も買い手がつかなかったものにコンコルドの他に、

「コンコルド・プロジェクト―栄光と悲劇の怪鳥を支えた男たち」ブライアン トラブショー(著)小路浩史(訳)

高速増殖炉スーパーフェニックス、

「核燃料サイクルの黄昏」(クリティカルサイエンス)緑風出版編集部(編)

TGV(韓国は買ったけれど・・・・)、

「図解・TGVvs.新幹線 日仏高速鉄道を徹底比較」(ブルーバックス)佐藤芳彦(著)

ミニテルがあげられます。

実は、学問の世界でも、「コンコルドの誤り」にあふれています。

パラダイムが変わっても、長い間、そのパラダイムで研究をしてきた学者にとって、急に捨てることはできません。

これが「パラダイム・シフト」を阻止する一つの理由になっているのです。

自分の体にしみ込んでいるものであって、自分を否定される痛みを感じることさえあります。

いきなり教科書を黒く塗れといわれるようなものです。

教科書が黒くなっただけではなく、心まで黒くなることがあります。

司馬遼太郎は、「坂の上の雲」の中で、「精神主義と規律主義は、無能者にとって絶好の隠れ蓑である」と書いていました。

「新装版 坂の上の雲 (1)」(文春文庫)司馬遼太郎(著)

個人のこだわりや、形式主義が、考えることを阻み、本質をむしばんでいいきます。

仕事で非常に成功した方法論があるとしても、それは、その時の、時代の流れや、状況でうまくいったのではないかと、冷静に考える必要があります。

こだわりを持つことは、正しい信念に思えるが、新しい柔らかな考えができないと同義語です。

新鮮な知識や情報という栄養が入ってこなくなって、結局、立ち枯れていくことになります。

花や木と同じように、今日の栄養を得るために地下に根を広げなければなりません。

強い自我は、人を枯らすことになります。

ダイエーの中内功は、流通に革命をもたらしたのですが、最初の成功が後でも続くと考え、「万能感」を持つようになり、「カリスマ」になってしまった。

時代に合わなくなったことを受け入れられなかったのです。

ちょっと待て、人は急に変われない!のである。

日本人の、特に、政治家が強調する言葉に「ホウレンソウ」というのがあります。

人間関係で生きていく上で必要なのは、「報告、連絡、相談」なのだそうです。

城島明彦の「ソニーの壁」を読んでいて驚いたことに、ソニーには「引継」というものがない、という事実。

「ソニーの壁―この非常識な仕事術」(小学館文庫)城島明彦(著)

ある人が部署を代わってきても、誰も引き継いでくれない。

自分自身のやり方でやればいい、ということになるのだそうです。

もちろん、分野によっては、大変な非効率になるのだが、最初から自分自身の新鮮な目で仕事を見ることの大切さを説いたものであると考えられます。

教師も引継を受けるが、下手に「この子はこんな・・・・」というような偏見を引き継ぎたくない。

そう言えば、東京工業大学などでは、退官した教授は、二度と大学に戻らない、という話を聞いたことがあります。

アメリカにも、そんな大学があるから真似ているのだろうと思われます。

つまり、教授が来て、今やっている研究にとやかく言うのは(いい忠告というのもあるだろうが)、今やっている人にとっては、余計なことでしかない、という認識から生まれてきているものだと推定されます。

こうやってセレンディピティについて書けば書くほど、偏見を与えているのかもしれません。

科学とは関係のない(といっても言語学も言語科学ということがあるのだが、我々の言語学は方向が違う)分野の人間が、どうしてセレンディピティなどについて語れるのか!という問題について触れておきます。

フランツ・カフカは「ある戦いの記録」で、次のように言っています。

「カフカ全集〈2〉ある戦いの記録・シナの長城」カフカ,フランツ(著)前田敬作(訳)

「しかし、月と名づけられたきみをあいかわらず月とよんでいるのは、もしかしたらぼくが怠慢なのかもしれない。

つまり、日常言語というのは怠惰の産物なのだ。

「月が昇る」という言い回しがあると、月はずっと昇っていくものだという思考から人間は逃れることが難しい。

月は月でなくなってしまっているかもしれないのに、みんなが月だというと、訝ることなく、月だと言ってしまう。

ぼくがきみを<奇妙な色をした、置き忘れられた提灯>とよんだら、きみは、なぜしょんぼりしてしまうのだ。

同じように「日が昇る」という言葉も、本当は「地球が太陽の周りを回って今いる所から見た地平線から太陽が少しずつ出てくる」とでも言わなければならないのに「日が昇る」と言い切っていまい、「真実」から離れてしまうのである。

言語という、人間を人間たらしめている最大の「檻」(こうして「檻」だと言い切ってしまうとみんな「檻」だと思ってしまうが・・・・・・)から離れるには詩的言語を生み出したり、言語から離れて思考することが大切になってくる。

「魔女」などいないのに、一旦、「魔女」という言葉が生まれてしまうと、「魔女狩り」に追い立てられるのが人間である。

魔女でなくても、ラベリングというか、人にレッテルを貼ることは日常茶飯事だ。」

ドロシー・スミスの「Kは精神病だ」という論文(『エスノメソドロジー』せりか書房)では、

「エスノメソドロジー―社会学的思考の解体」ハロルド ガーフィンケル(著)山田富秋(訳)

ある女性が、周囲の人によって精神病だと見なされていく過程を研究し、その過程が、他の人との些細な食い違いの積み重ねによること、また、一旦、その人が精神病と見なされると、それまで見逃されていたことまで証拠になっていくことを指摘していた出来事が印象に残っています。

「エスノメソドロジー―人びとの実践から学ぶ」(ワードマップ)前田泰樹/水川喜文/岡田光弘(編)

「エスノメソドロジーへの招待―言語・社会・相互行為」デイヴィッド・フランシス/スティーヴン・へスター(著)中河伸俊/岡田光弘/小宮友根/是永論(訳)

そう、言葉にも「コンコルドの誤り」があふれています。

失意や反感を恐れるあまり、既に、その名に値しなくなったものを、惰性で呼び続けることの何と多いことか!

ソクラテスは、愛とか、正義とかの、ふだん使い慣れている言葉が、どんなに根拠のない思い込みから発しているにすぎないかを、話し合いのなかで一つひとつ暴いていきました。

この対話は、「ドクサ(思い込み・偏見)の吟味」と呼ばれますが、自意識が変容する身体の経験について、

「「出会う」ということ」竹内敏晴(著)

今までの生育歴、学校、社会教育の過程でいつのまにかつくり上げられてきた慣習としての体に、アレ?と気づいて立ち止まって、自分を見なおし始めることであり、これは、自分自身の感受性と思考によって行動すること、言いかえれば疑うことへの出発です。

ニーチェは、「華やぐ知恵」の中で、独創性について、次のように書いています。

「ニーチェ全集 〈第1期 第10巻〉 華やぐ知慧/メッシーナ牧歌」ニーチェ(著)氷上英廣(訳)

「独創性とは何か。

万人の前の前にありながら、まだ名前を持たず、まだ呼ばれたこともないものを、見ることである。

人の常として、名前があってはじめてものが見えるようになる。

独創的人間とは、命名者である。」

科学哲学者のガストン・バシュラールは、引き算が大切だと言っています。

つまり、人間、はあまりも多くの情報を持ち、固定観念に縛られている。

物事の本質を見るためには、足し算でたくさんの情報を得るのではなく、むしろ、引き算をしていかなければならないというのです。

「哲学な日々 考えさせない時代に抗して」野矢茂樹(著)

同じことは、「芸術は爆発だ」の岡本太郎が、「自分の中に毒を持て」の冒頭の「自分の大間違い」に、次のように書いています。

「自分の中に毒を持て (新装版)」(青春文庫)岡本太郎(著)

「人生は積み重ねだと誰でも思っているようだ。

ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。

財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。

(中略)

人生に挑み、本当に生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。

それには心身ともに無一物、無条件でなければならない。

捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。

今までの自分なんか、蹴トバシてやる。

そのつもりで、ちょうどいい。」

記号論とは、何かと言われたら、定義をしないのが記号論だと答えることにしているのですが、「王様は裸だ」と暴くことに近いかもしれないということがあります。

オーソン・ウェルズのラジオドラマ「火星人襲来」が本物のニュースと間違われ、全米でパニックを引き起こしたのは、1938年10月30日でした。

事実とフィクションが入り組んだ新しい放送メディアの危うさを告げたこの事件には、もうひとつ、隠れた教訓がありました。

意外なことに、このドラマが、現実のものではないと見抜いたのは、子供たちだったということです。

子供らには、ラジオから流れる声が、いつものウェルズの声だと分かったのです。

だから、子どものようになれ、という訳にはいかない。

何も知らないでは、大人とはいえないからです。

だから、そうした引き算のためには、大変な努力が必要になってくるのであろうと考えられます。

「「問う」を学ぶ 答えなき時代の学問」中村桂子/島薗進/辻信一/中村寛/奥村隆/吉澤夏子/江原由美子/広井良典/池内了/内田樹/小川隆/野矢茂樹 (著)加藤哲彦(編)

例えば、教師が一番扱いにくいと感じる学生は、自分が「馬鹿」であると信じ込んでいる「馬鹿」だ。

「馬鹿」だから、何をしてもダメだという固定観念が、悪循環を作る。

その「馬鹿」の悪循環から逃れなければならない。

先入観をなくせ、先入観を捨てよ、というのは簡単だ。

フランシス・ベーコンだって、先入観を「イドラ」(偶像)と呼び、正しい知識獲得の妨げになると説いていました。

ただ、強調しておかなければならないことは、「偏見」や「先入観」や「固定観念」や「制度化された見方」から逃れるのは、容易ではありません。

「先入観が悪い」というのも、実は、偏見です。

これらをなくして、何かを理解することは、不可能だからです。

恋愛ということを知らなくて、「源氏物語」は、読めないということです。

早期教育で「源氏物語」が「読める」子どもが生まれたとしても、これで「理解」したことにならないのと同じです。

子どもの考えが偏見もなく、自由だからいい、という人もいるが、ただ、モノを知らないだけなのだから。

子どもは、純粋なのではなくて、未熟なだけだ。

先人が何を言っているか、知ることは大切だ。

しかし、先人の言うことが、正しいとは限らない。

そんな姿勢が大切だ。

コンコルドの誤りの誤りどころか、人間は、自分に都合の悪い図式を否定する傾向があります。

これを心理学者のレオン・フェスティンガーは、「認知的不協和の理論」と名付けました。

「認知的不協和の理論―社会心理学序説」レオン フェスティンガー(著)末永俊郎(訳)

「予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」」(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)ダン アリエリー(著)熊谷淳子(訳)

「失敗の科学」マシュー・サイド(著)有枝春(訳)

例えば、タバコが肺ガンにつながる、という知識に接すると、自分は喫煙をしているという知識と、喫煙は肺がんになるという知識との間には不協和が生じてきます。

この認知的不協和を低減するために、肺がんになるという知識を打ち消すような情報を探すなど、不協和を低減するためのさまざまな方法がとられます。

いわば、戦前の日本軍の大本営情報状態になることがあります。

自分でウソを流しておきながら、いつの間にか自分に都合のいい情報だけを信じる方向に走ってしまうのです。

晩年のエジソンも狂気に走ったひとりでした。

「メタ思考~「頭のいい人」の思考法を身につける」澤円(著)

「誠実な組織 信頼と推進力で満ちた場のつくり方」ロン・カルッチ(著)弘瀬友稀(訳)

人に宿る霊的な知性は、死後も存在すると考え、死後の世界との交信装置の開発に取り組みました。

「天才とは1%のひらめきと99%の努力のたまもの」という名言も、むしろ1%の霊感の重要さを訴えたのだといいます。

最後まで電化の方式を直流にこだわって、交流が危ないということを証明するために電気椅子を発明したことは有名だです。

また、発電機の改良に挑戦した研究者に「そんなことができたら5万ドル払う」といい、彼がみごと成功すると「君はユーモアがわからないのか」と支払いを拒んだそうです。

怒った研究者は、ライバル社に移り「発電の天才」と呼ばれる業績をあげていました。

土星型原子模型の提唱で世界的な業績をあげた長岡半太郎も、1924年に、「水銀を金に変える実験に成功した」と発表して世間の注目を集めたことがあります。

結局は、もちろん、間違いだったのですが、大阪大学初代学長を務めた男でも、十数年間その誤りから抜け出せなかったのだから、思い込みは怖い。

チョーサーの「カンタベリー物語」は、カンタベリー大聖堂に詣でる巡礼者が、さまざまな物語を語る話です。

「完訳 カンタベリー物語〈上〉 (改版)」(岩波文庫)チョーサー(作)桝井迪夫(訳)

「完訳 カンタベリー物語〈中〉 (改版)」(岩波文庫)チョーサー(作)桝井迪夫(訳)

「完訳 カンタベリー物語〈下〉 (改版)」(岩波文庫)チョーサー(作)桝井迪夫(訳)

錬金術師の徒弟が出てきて、宿の主人に師匠のことを話すうち、「あまりに知恵がありすぎると、人はそれをあやまって使う」と語りだし、「わたしの主人もそういうことなんです」と。

ついには、師匠の錬金術のいいかげんさを暴露し、それを耳にした師匠は、宿から逃げ出した。

ドイツの精神医学者ランゲ・アイヒバウムが、天才の多くが分裂病圏の人だと述べたことは、有名です。

「天才―創造性の秘密」(みすずライブラリー)W. ランゲ=アイヒバウム(著)島崎敏樹/高橋義夫(訳)

彼の説によれば、正常であるということは、ただ平凡であるに過ぎないということになるかもしれない。

すると、正常はよくて、異常は悪い、と単純に決められなくなってしまいます。

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