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困っても大丈夫。

「困った、困った」といっても、それは自分の置かれた立場から見て、困っていることが多いものです。

たいがいは、自分で決めたことで自分の首を絞めています。

困ったときは、その立場をちょっと離れてみればいいんですよね。

約束を守れなくて困ったとしても、死ぬか生きるかといって悩むようなことじゃないと思います。

ちょっと勇気を出して、あと一月待ってもらえますかと言えば、何とかなることも多いのではないでしょうか?

「困る」とは、「思うようにならない」ということ。

でも、世の中は、思うようにならないのが、当たり前なんですよね^^;

思うように人生を生きようとしたら、人生を、とても狭いものにしてしまうんだと思います。

現実は、思うようにならないことにあふれています。

思うようにしようと思っていたら、思ってもみないことには目がいかなくなります。

だから、思ってもみないことにこそ豊かなものがあるのだと思います。

思うようにならないことを拒絶したら、その体験を捨てることになると思いませんか?

それではもったいないですよね(^^)

「困った」ということは、これまでのやり方や見方では通用しない事態が起こったということです。

それは、チャンスなんです。

それによって、白紙の状態になって自分の智恵に聞くことができるからです。

すると、一瞬一瞬がクリエイトの場になるんです。

普段使わない頭が回転を始めます。

そこで、過去のやり方や見方に固執すると、クリエイトする機会を捨てることになってしまいます。

そう、思うようにいかないことで、揺らぎを楽しむ知恵を養っていきたいものです。

例えば、思うようにならないことが起こると、とりあえず「風流だな」と思って受け入れてみるのも良いかもしれません。

困ることで、こうしようと思っていた志が揺らぎますよね。

その揺らぎこそ、風流なんです。

禅の言葉に、「八風吹不動」(八風吹けども動ぜず)とあります。

人生には、私たちの心を乱れさせる八つの障害があると言っています。

「八風」とは、「利(り)」(利得を得る、意にかなう)、「衰(すい)」(損失を被る、意にかなわない)、「毀(き)」(陰でそしられる)、「誉(よ)」(陰でほめられる)、「称(しょう)」(人前でほめられる)、「譏(き)」(目の前で悪口をいわれる)、「苦(く)」(苦しみ)、「楽(らく)」(楽しみ)の八つです。

そう言われてみれば、私たちは、八つの風に吹かれて自己を見失うことが多いですね^^;

誉められたり、けなされたり、意にかなっても、かなわなくても、苦しくても、楽しくても、そんなことに動じないことが大事なんですよね。

でも、まあ、そこまでいくと、これはこれで、人間味がなくなり、味気ない人生になってしまいます。

動じないといっても、揺らいでもいいんです。

揺らぎを楽しめるのが、風流な生き方なのかもしれません。

人生に起こることは、大部分が思うようにいかない。

それが当たり前なんですよね。

思うようにいかないことで揺らぎがある。

そこを楽しむ姿勢が風流なんです。

例えば、私たちは、予定を立てて行動しますが、あまり細かな計画は立てる必要はないのかもしれません。

成り行きを楽しめることが、実は、計画を予定通り実行するより、大事な時もあるのだと感じます。

そう、思うようにいかないことが起こったら、予定を変えればいいんですよね(^^)

計画というのは、そのとき何が起きるかを予定していないわけですから、「これでいい」と思った過去の残骸なんだって思いませんか?

それは、今のその場の気持ちや状況とは違っています。

その場の状況変化に合わせて、計画も逐次、軌道修正していけばいいんです。

計画という過去の残骸に縛られて、今の気持ちのほうを切り捨てるのは愚かなことだと思います。

困るということは、「こうするはずだった、こうじゃないといけない」という思いが、そうでなくなっただけのことです。

そのとき立ち止まって、「本当のところどうなのか」「そもそも思っていたことなど、それほどたいそうなものだったか」と、よく検証してみることが肝要だと思います。

何より、人生が思い通りでいけたらつまらないと思いませんか?

予期しない現実のほうが、はるかに味があって面白いと思います。

そういう気持ちでいれば、必ず対応策は出てくるものです。

思うようにいかなかったら、それは立ち止まるチャンスなんですよね!

立ち止まることで、たくさん本を読む時間も持てるし、じっくり考える時間も持てて、周囲もじっくり見ることができる様になります。

そういう時間は、まさに賜りものなんですね(^^)

人生、器用に生きるより、もっと、味わいながら不器用に生きなさいって、言われているんです。

「困った、どうしよう」という事態になったら、そこで立ち止まって、今、自分は何を賜ったのかを探すといいんじゃないかって思います。

探し当てたら、それはきっと感謝したくなるようなものなんですよ(^^)

また、禅の言葉に、「息慮凝心」とあります。

慮(おもんぱか)るを息(やす)みて心を凝らすといった意味合いであり、理屈にとらわれすぎないで、冷静に見ろということを言っています。

あれやこれやと思い巡らしても、決して満足のいく回答を得ることは難しいですね。

逆に、不満が果てしなく心の中に広がっていく。

そんなとき思いを巡らせることを休み、まず、目前のやるべきことに全力をつくすことに注力すべきであることを教えてくれています。

くよくよ悩むのが悪いとは、初めから否定してはいないんです。

そういう思いが前述の八風の吹くかのように湧くのが人間で、これは避けられない。

竹の中味は空っぽだけど、人間は心をまったく空にはできないんですよね。

つまり、人間は、竹のように、風が去ると元の静寂を取り戻すことはできないんです。

しかし、「息慮凝心」のように少しの間でもいいから、ちょっと休むことができたら、楽になれるんじゃないかって気がします。

私たちも、様々な思いで心がいっぱいにならないように、くよくよするのを一休みしながら、何があっても自分の道を歩いていきたいものです。

「大丈夫」を心の糧にして(^^)

困ったとき、事態を拒絶したら乗り越えられません。

拒絶というとかっこよく聞こえますが、逃げていることと変わりないですよね。

思ってもみないことは、いつだって起こります。

それを「嫌だ、困った」と拒絶するのは、自分の歩ける道を、どんどん狭めて逃げているわけです。

困ったことが起きるのは、実は、自分が変化するチャンスなんです。

困らなければ変化しないのだから、これほど有り難いことはない。

自分の成長のためのプレゼントだっていうくらいの気持ちで受け止めたいですよね(^^)

また、嫌いな人を避けるのは、自分の中にある認めたくない部分を相手に投影しているからです。

だから、嫌いな人を避けている限りは、自分は変わらないのだと思います。

嫌な人をそのまま受け入れてコミュニケーションができるようになったときに、自分の中の嫌な部分が受容できるようになって幅が広がるのだと思います。

お釈迦さまは、「自らを灯明とせよ、法を灯明とせよ。それ以外を灯明としてはいけない。道しるべとしてはいけない」と説かれました。

この「自灯明」の「自」とは、固定的な自分ではない変化し続ける自分です。

変化している自分が素晴らしいんです。

修行とは、自分を変えるためのものです。

例えば、noteは書けば残りますが、修行はあとに何も残りません。

残るのは、変化した今の自分だけであり、自分がどう変化したか、そこがいちばん大事だと思います。

自分の志を変えないまま乗り越えようとするのは、無理な話です。

困った事態を乗り越えるためには、志を変えるしかないし、志は、どんどんと変わっていいんだと思います。

自分が変わるということを喜ばなければいけない。

余計なこと、厄介なことこそ、風流と思って喜ぶべきだろうと思います。

最後に、忘れないでいたいことのひとつが、大丈夫に生きよということです。

『孟子』に、「大丈夫」という言葉があります。

「天下を広い住居として、天下の真中に立って、天下の大道を歩む。目指す地位を得られれば、人民とともに道を実現し、目指す地位を得られなければ、自分ひとりで道を実践する。富貴にも迷わされず、貧賤にもくじけず、威武をものともしない。これこそがまことの大丈夫なのである」(『孟子』「滕文公下」)

顔を合わせられない人なんかいないから、天下は広い。

その天下の真中に立って、大道を歩む。

仲間の賛同が得られなくとも、自分ひとりで道を実践する。

お金にも迷わず、貧乏にもくじけない。

むろん威されたってものともしないのが、大丈夫なんです。

「それでも私はやる」、ということでしょう。

自らの「個としての心地よさ」を大切にして、その道を進む、ということでしょうね。

大丈夫の心で、困った状況を乗り越えていきたいものですね(^^)

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