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日常を撮りためよう。

個人によっても差はあると思いますが、だいたい2~30年も経てば記憶というものは風化して薄れたり、違った記憶が混入したりしてあやのないものになっていくものではないでしょうか。

どんなに鮮烈な経験でもその記憶は何らかの時間の作用を免れ得ないと思うからです。

ところが、不思議なことに、過去の出来事の「感じ」は残っています。

「ああ、あんな感じだったなあ。」というのは、しばしば私たちが経験するところではないでしょうか?

この「感じ」が大事なんじゃないかなって気がします。

要は、「記憶」とはこの「感じ」を核としてできる結晶のようなもので、いかようにも変化していくし、消えてもいきますが、核の「感じ」は変わらないと思うからです。

「感じ」はあやふやなようで、逆に確かなものなのかも知れませんね(^^)

読書をとってみてもそのことは言えると思います。

内容はほとんど忘れているのに、その読書にまつわるいろいろな「感じ」は残っている、ということはよくあります。

そして、この「感じ」の連綿たる連なりこそが人生ではないかと思うことがあります。

具体的な記憶は失われてしまっているのに、突如「感じ」が今に蘇ってきます。

親しい世界からなんにも持たされずに未知の中に放り投げられたときの「感じ」、好きな人が出来たときの「感じ」、論争に負けたときの「感じ」、親しい人に見放されたときの「感じ」、深い自己嫌悪の「感じ」、妙に人懐かしい「感じ」・・・・・・

これらのいとおしい「感じ」たちは自分の中に寄り添って自分をふくらませてくれます。

「記憶」は過去ですが、これらはすべて今に蘇ります。

そしてもう一つ付け加えるならば、「感じ」には善し悪しの別がありません。

一生懸命今を生きていればたくさんの「感じ」たちに囲まれることになるでしょう。

しかし一方で、その「感じ」が今に蘇るためには「記憶」の夾雑物をそぎ落とすための時間も必要だということを、また知らなければならないと思います。

ボビー・ジョーンズは、「人は敗れたゲームから教訓を学びとるものである。私は勝ったゲームからまだなにも教えられたことがない。」と語っていました。

「うまくいく」とは、味わわなくても済む恐怖を味わわずに“ゴール”に到達することです。

「うまくいかない」とは、味わうべき恐怖を味わった上に“ゴール”に到達できないことと言えます。

“ゴール”に到達することが目的であれば「うまくいく」に越したことはないのですが、それが目的ではないということであれば「うまくいかない」方が最終的には「うまくいく」ことにつながっていく筈。

無傷で“ゴール”に到達した人を目指すべきなのか、味わうべき恐怖を1つでも多く身をもって知っている人と、どちらを目指すべきか・・・・・・

“ゴール”は目指すものであって到達すべきものではないのかも知れませんね。

goalを英英辞典で引いてみると語源は、boundary, limit。

つまり「境界線」あるいは「限界」。

いずれも意図的に踏み越えたり乗り越えたりすることができるものって意味合いです(^^)/

もっと言えば、越えていくべきもの!

さぁ、自分の目線を変えてみるためにも・・・・・・レンズをのぞくと、いつもの風景も特別に見える♪かもよ(^^)

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