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雲の海を見下ろして、地球の丸みを実感する。

『縁』の悟りなくして明(物事の真実)を得ることは無いそうです。

この世全ては『縁』の有る無しによって大きく変わるのも事実でしょうね。

人生のいろいろな出来事を縁として自ら悟りを開こうと努める気持ちが大事ってことなんでしょうね。

例えば、五蘊の中の色(かたち)を取れば解り易いと思いますが、太陽の光という『縁』によって有情(生きとし生けるもの)は色(かたち)を見ることが出来ます。

即ち、煩悩欲であろうが、将叉、仏心得施からであろうが『縁』無くして情け(受)、想い、行い、考え(識)は行えないってこと。

これは森羅万象の基本であると仏教では教えていますが、獣と然して変わらぬ俗人は蒙昧極まりない『優劣』をつけ、足許で『慈悲』を乞う小さき生物(もの)に気付かないんですよねぇ^^;

「悟りなんてとてもとても縁がない」 と思わないでください。

「覚悟」の文字。

一般的には、悪い事態や大事を予測して心の準備をすることを意味するかと思います。

覚悟の文字は、2つとも「さとる、さとす」という意味の漢字です。

覚悟は、この「さとり」を表す2語からなる複合動詞です。

であるならば、悟りの文字に囚われずに、この覚悟を持って何かスタートしたのであれば、その時点で、迷いから覚め、悟りに至れたことになる。

言葉って面白いね(^^)

ひとつひとつの漢字の意味を丁寧に味わうことで、違った視点に至れるし、また、物事を俯瞰してみることも可能です。

つまり、人間は、例え短時間であったとしても、覚悟を持てれば、みんな悟れる存在なんですよ。

それに気づいていないだけ。

そう、なぜ、その姿なのか?

なぜ、それが好きなのか?

ひとつずつ、覚悟を決めて(悟って)いくことが大切ですね(^^)

なぜ、私は生まれたのか?

なぜ、ここにいるのか?

目は、どこに向いているのか?

でも、また、迷ったりするよね。

覚悟を決めても、迷ってばかりの私^^;

でもね。

白隠禅師は、「生涯で大悟が三度、小悟は数知れず」とおっしゃたそうです。

白隠禅師の悟りというものは一度悟ったら、それでおしまいということではないようです。

道元禅師の場合は、悟ればこうなるだろうとあらかじめ考えていたような悟りは、大した悟りではないと手厳しい(@@)

本当の悟りというものは、まったく想像もつかないようなもので。

本当に悟ったら迷いなどというものはなくなると断定していらっしゃる。

悟りにも、レベルの違いとうか、かなり違いがあるようだから。

私たちは、覚悟して、迷って、また、覚悟して、迷うでも、良いのかなって、そう思います。

一度悟ったと思っても、それだけではなかなか完成したわけでもないようだから(^^)

そもそも、悟りだ迷いだ、善だ悪だといってもたかがしれている。

お釈迦様が仏法を説かれてざっと2500年。

地球の歴史や宇宙の歴史の中で、ほんの一瞬を過ごしているのに。

なぜこうも大小さまざまなことで悩むのか^^;

でも、悩むから人生が味わい深くなるのかもしれないって考えって良くない?(^^)

「楽は苦の種。苦は楽の種。」(白隠禅師の言葉)

ぽぉーんと宙に浮いて、空から下を見渡してみるみたいな感じでしょうか?

たくさんの疑問が。

とても些細なことのように思え。

いつしか、なんだか悟っている自分に気づくはずです。

そう、宇宙は、想像もつかないくらい大きい!でしょ(^^)

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