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意識高い系の人とかコミュニティがどうも苦手な理由は何だろう…


意識高い系と言われるような方たち
どうも苦手というか苦手というか苦手なんだけど
それは一体何故なのか。

それでは今日も
暇を持て余した私の駄文にお付き合い願います。

(^。^)

実はそもそもわたし自身が20代前半の頃に
意識高い系に片足突っ込んでる時期があります。

(因みに、わたしの意識高い系へのはじめの第一歩は
ねずみ講集団に金銭を要求されるというアホな結果を迎えております^ ^ )

当時は自己啓発本を毎月購入することが趣味で
数十冊もの自己啓発本を読み漁っておりました。
成功の法則なるものを信じては
トライアンドエラーもたくさんしました。

そしてある時気がついたのでした。

著者も成功している分野も異なるそれぞれの自己啓発本たちでしたが、どれもこれも「成功の法則」のようなものの内容が似たり寄ったりということに。

それに気付いた時の私はこう思いました。

「一冊買えば充分やったや〜ん…」と。

そして、それらの「成功の法則」は
少なくとも私の性質には向いていないもので
私の価値観からは何の価値も意味も見出せないものたちでした。

アホみたいにトライアンドエラーしたからこそ実感できました。アホみたいに時間費やしてます。アホ

そういう一人意識高い系劇場を開催していた小っ恥ずかしい過去が、意識高い系の方たちを見るたびに前頭葉に舞い降りてくるので苦手な側面も大いにあると思います。

自己啓発本の中身がどれも似ているからなのか
意識高い系の方たちって行動とか発言とか思考の仕方がなんか似てません?

何だろう、その、意識高い系の方たちが嫌いなわけでは無いんです。たぶんきっとmaybe社会に悪影響を及ぼしている訳でもないしどちらかと言えば元気や活力をお裾分けしてくれる存在だしなんかキラキラしてないわけでもないし頑張ってる感じもあるし好感はとてもあるんですけどなんかそれと同じくらい苦手だな…という感情が同時にわいてきません?わいてくるんですよ…。

なんだろう、人それぞれバックグラウンドが違って価値観が違って個性が違って見た目も好きなものも違って…何から何まで少しずつ人間って違うじゃないですか。他人と違う要素をあえて伸ばしてみたら人生突然楽しくなったりするじゃないですか。

そういう「他人との違い」を
まるで無いものかのように扱っておきながら
みんな同じ方向を向いて
みんな同じ努力の仕方をして
みんなにとってこれが最適解だからね!
と言わんばかりの押し付けの価値観や努力みたいな見えない圧力のようなものを意識高い系の方たちの言動の節々に感じてしまって息苦しくなるというか。なんなのか。

継続することが良いことで
継続できないことが悪いこと
みたいな考え方が私にはわからないというか。

その人が継続できないことってのは
その人にとっては継続させる必要が無かった物事だったんじゃないかなと思う。

努力が必要ってのもよくわからないというか。

自分がただ楽しんで没頭している様子を見て
それを他人や周りが勝手に「努力」と呼ぶだけで、
本人はそれを努力だとは微塵も思っていないようなことが本当の努力なんじゃ?と思う。

努力ってのはあくまでも他人や周りが勝手に各々の価値観から決めている存在の名前なのであって、
自分から態々「これは努力だ」と自覚しながらするものではないというか、なんというか。

「これは努力だ」とか
「自分は努力している」とか
そういう気持ちから発生させる努力って
疲れるしなんか苦痛じゃない?

楽しいことって続けようと思わなくても続けられるし、楽しいことを続けていれば結果が付いてきたりして。
結果が出た時にその結果を見た周囲が
その人のそれまでの過程に「努力」と名前をつけて呼んでいるだけのことだと思うんだよね。


努力のくだりが長いって?
「努力」って言葉あんま好きじゃなくてさ。

意識高い系の方たちの言動が似ているのって
意識高いっぽく見えてる誰かの語る「良いこと」
を自分にとっての「良いこと」だと認識して
その意識高いっぽく見えてる誰かになろうとしているからなのかなーと感じる。

でもそれって本当に「良いこと」なの?
意識高いっぽく見えてる誰かと
あなたは全くの別人でしょ?

お互い違う「良さ」を既に持っているのに
何故それぞれの良さの違いを見ようとしないの?

そんな風に違和感を抱いてしまう。

自分の軸って大切だと思うんだ。
例えその軸が誰かにとっての「悪」だとしても。
だって、誰かにとっての悪ならば
必ず誰かにとっての善にもなっているから。

軸がなくちゃダメって言いたいんじゃないんだけど

自分の軸を探そうとも見ようとも大切にしようともせずに、なんか意識高いすごい人そうな他人の軸に従っているだけの状態なのに、あたかも「自分の軸はこれ(他人の軸)だから自分はすごい人なんです」と言い張ってるような感じがしちゃって苦手なのかもしれない。あー日本語ワカラナイヨ。
日本語コネクリマワシテルダケ🍄

オレはオマエのホントウが知りたいんだ。

ホントウのオマエを教えてくれよ。

ホントウのオマエがクソクズでもええねん。
好きなことを好きと言え。
そんなオマエがオレはええねん。(誰やねん)

そんなオマエだからこそ
オレはオマエがええねん。


誰やねん。



そう、あと意識高い系コミュニティがもっと苦手なんだけど。
なんだろうね、群れてない風装ってるけど
めっちゃ群れてるよね?
どんどん群れがデカくなってくよね?
群れ怖い!!

わたしは群れが怖い!!

だから苦手!!

孤独を愛する群れ恐怖症(微)!!

仲間ってのはお互い手を取り合ったり支え合ったり高め合える存在で最高だと思うんだけど
意識高い系の方たちのコミュニティってなんか仲間って感じじゃなくて「群れてる」とか「馴れ合ってる」とか「弱さを隠し合ってる」とかそういう雰囲気ないですか?気のせいですか?気のせいだったらすみません。

なんかこう、
「あの人がこれを頑張ってるから私も頑張ろう」
みたいな感情なら健全な関係だと思うんだけど。

「君のここがすごいよ」
「あなたのここがすごいよ」
の讃え合いだけの認め合い合戦の先に待っているのは?他人からの賞賛以外の声を受け入れられなくなったプライドの高い偏った思考の人間なのでは?
違うのか?違うかも。なんかごめん。

でもなんか、そういう気持ち悪さを感じてしまう。

自らぬるま湯に浸っておきながら
「ここは熱湯だ!すごいだろ!」
と見せつけられている感覚?

そんな感覚も悪くはないけど
見せつけてこないでほしいというか
見せつけられてもいいのだけれど
それをこちらにまで求めてこないでほしい。

ぬるま湯に浸かってる相手に対して
「これは熱湯ですね!あはははは!すごい!こんな熱湯に浸かり続けてるなんて信じられない継続力ですね!並々ならぬ努力してますね!」
なんて嘘言えないよ。
だって女の子だもんッ。もうすぐ30チャイ。

善の押し付けは不幸の押し付けでありまふ。

ぬるま湯をかけ合っているとね
気付いた時には湯、冷めてますよ。

水風呂です。


ていうか、意識高い系の方って
意識高くなさそうな生活してる人たちのこと
なんかどこか見下してるような節ありません?

気のせいかな?すみませ〜ん…。゚(゚´ω`゚)゚。

「ムダを無くす」とかそういう意識も高いような気がしてるんですけども。
そもそも「ムダ」ということに注目していくと
「生きてることこそがムダ(超真理)」!!!
というところまで遡ってしまいません?
そこまでは遡らないの?逆にね?何の逆??
どこまでがムダでどこからがムダではないのでしょか?ムダって言えば何もかもムダじゃね?

息を吸うことにカロリー使うことも
寝ている時でさえカロリー使うことも
食事することにさえカロリー使うことも
ムダっちゃムダじゃね?

わたしの好きな作詞作曲なんかも
めっちゃムダな行為っちゃそうだけど、
ムダの中に創造が生まれるのだヨ!!諸君!!

ムダを楽しむことこそ人生じゃないのかい!!

プッチョベンザぁプ🖐️

んんん!




ドロン!!!






※ひとりごとなので悪しからず。
















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