見出し画像

ショックすぎた


5/9

 昨日(もう一昨日になってしまった)のショックを言葉にしてみようと思います(当日だととても暴力的な言葉にしてしまう気がしたので、発酵させました。正直今でもこれをわざわざ不特定多数に晒す意味はあるのか、わかりません。多分何かしらの意味を持たせたいとかの教訓めいたものはなく、ただただ私の心一つではなかなかにヘビーで、吐露したいだけかもしれません。)。

 私の履修している授業の一つに、ニュース記事を元に各自で話題を持ちよって15分ほど話す授業があります。昨日は私の番で、パレスチナについて話題提供をしました。知ってほしかったし、考えてほしかった。意図的にそういう時間を作らなければ、忙殺されてしまうと思ったので、私自身のためでもありました。世界でどのように今変化していて、パレスチナがどうなっているのか。そしてそれらを受けて日本でも活動が広がっていること。学校ではどう向き合うべきなのかということ。ちょうど地獄を見た日の朝でした(5/6-7)。葛藤している点も含めて共有をし、みんなの考えを聞きたいと思っていました。

出てきた意見は以下のようなものです。(発言そのまま)

デモ、公道でやって警察とかが規制しているのを見ると、むしろ周りの人の迷惑になっているなと思う。

デモとかそのキャンプみたいなやつ、やって何の意味があるの?だってこれって宗教問題なわけじゃん。俺らがどうこうできる問題じゃなくて本人たち同士にしか解決はできない。俺らができるのは食料とかの支援だけでしょ。

小学校とか、学校で政治的なことを教えちゃダメだよね。日本がどのような立場で関わっていて、どういう支援をしているかだけを教えたほうがいいと思う。

 真剣に頷く学生たち。どこまでが同調圧力?お願いだから、心の中ではそう思っていないと言ってほしい。理性的で、倫理的な人間であるかのような顔をしないでほしい。今のあなたの発言はその対極にいるのだということに気づいてほしい。昨日ほど教育の無力さを感じた日はありません。机上で教育の無力さを語ることはあっても、ここまで実感を持って言うのは初めてです。彼らは高校で歴史を学んだとしても、民主主義を学んだとしても、人権を学んだとしても、ニュースを見たとしても、上記のように思うのです。教え方の問題でしょうか?私もそう思いたかった。しかし授業の本題(ジェンダーについて)の意見交換中、私のその仮説は揺らぎました。それはとても丁寧な、理論と日常の感覚が織り交ぜられながらの授業でした。以下は、アンコンシャスバイアスについて学んだ直後の発言です。

ジェンダーとか、性別に関する偏見とか色々あるけどさ、悪意を持ってやっているわけじゃないじゃん?それも偏見になって非難されるってなんか納得いかないよね。

 この意見は、たしかに大きな問いが含まれているようにも思います。しかし、悪意の有無ではない私たちのものの見方が、いかに今の社会的な構造をつくっているか、それを変えていくためにはどうしたらよいかについて学んだ直後に、アンコンシャスバイアスを正当化するような発言をしたのです。教育の限界が見えた気がしました。

 もしかしたら、彼らには、パレスチナの生々しい映像を見せたら前述のようなことは言えなくなったかもしれません。しかし、同情で惹きつけたとしても、彼らには真の意味で届かないようにも思います。「かわいそう」ではなく「異常だ」「おかしい」「許されることではない」、そう思って欲しかった。

 ここまで、結局強い口調で文章を書いてしまい、罪悪感が芽生えていきました……。つらい。

 全てのデモを美化するつもりはありませんし、大学内には、このような発言をする人だけではありません。ジェノサイドを正面から非難する声を上げる学生や先生もいる。だから大学全体や特定の学生を批判したいわけではありません(おそらく上記のように思っているのは彼らだけではないし)。ただただ、この昨日の体験はショッキングで、「こういう意見があるらしいと知る」ことと、「こういう意見を持つ人の顔を見てその人と話す」ということには、大きな隔たりがあると感じました。彼らの口から出てきた意見は、典型例のようにも思えます。デモへの抵抗感や、パレスチナを宗教問題としてのみ捉えること……。

 何よりも正面から意見できなかった自分自身への嫌悪感があります。どちらかといえば、怖くなって、あの教室空間から抜け出したくなった。自分が今まで身を置いてきた空間がいかに、同一的であったか。デモに対して肯定的な人が多く、ニュースへの関心も高い。この落差は、おそらく高校での体験が響いているのだと思います。まだ高校に入学して間もない頃、選挙についてのストーリーを上げたら、翌日数人の人が「私もこの政策ニュースでちらっと見かけて気になってたんだよね」「投票の問題意識、共感した」と声をかけてくれました。コンゴの性暴力についてあげたときは「性暴力がこんなにも個人的ではなく、組織的/政治的/領土をめぐる問題だとは思わなかった。共有してくれてありがとう」と。失礼な話ですが、見た目が結構チャラい人からそういう意見をいただいたので、私はそこで、人間に対する盲目的な期待が芽生えてしまったのかもしれません。どんな人でもあっても(少なくとも現在のパレスチナのように拭えない憎しみが発生していない場においては)、人は、知れば変われると。

 できることなら、高校の時のような、ぬくぬくとした環境にいたい。知ることに貪欲で、ものの見方を更新することを恐れない人々に囲まれて生きていたかった。だけど今は、嫌な言い方だけれど、数が必要でもあると思うのです。デモで自分の意見を表明することは、それが集団で、世論であるということにも意味があるはずです。国や世界が無視できない「数」にしたい。そのためには、私の近くにいる彼らに知ってもらわずしてどうするのだと。しかも教育を学ぶ彼らに理解してもらえずして、誰に理解してもらうというのか。

 でも、じゃあどうするのと言われても、今の私はすっからかんです。正直、あまりにショックが大きかった。授業の後、一人で図書館の個別ブースで泣きました。パレスチナに対する無力さだけではなく、こんなに身近な人たちへの、です。

何 かを見失ってしまいそうです。一つ揺るがない事実は、これがジェノサイドであり、起きてはならないのことであり、何もしないことは、これらを許容することと同意であるということだと思います。何億人、何十億人という人々の目に晒されながら、誰も殺人を止められていない。虐殺を止められていない。私がこの文章を書いている間にも、一体何人の命が奪われたのでしょう。もう、お願いだから、やめて。誰も殺さないで。

 最後に、私を形づくってくださった中学と高校のそれぞれの先生方の言葉を載せます。私は彼らによって、育てられました。知り、苦しみ、悩み、それでもとりあえず動いてみることを見せてくれたのは、彼らでした。昨日今日、自分とは違う社会認識をした集団を目の当たりにしてグラグラした私に届けてくださった言葉です。

授業では、ガザで起きていることを伝えるとともに、それに抵抗している人々のことも伝えます。グローバルサウスの国々、世界各国での、イスラエル国内でも起きている虐殺をやめろの声。『近現代史は戦争の歴史と言われるけれど、それと同時に、戦争を止めようとする人たちの歴史なの』ということを授業開きからずうっと言い続けてきました。

日本や私たちが何もしない/できないことは、恥ずべきことです。しかしもっと恥ずべきことは、何もできない無力感を恥ずべきこととすら思ってないことです。さらにさらに恥ずべきことは、そうしたデモや抗議を嘲笑することです。(略)とはいえ日本の歴史や世界情勢の中で、全てのデモが手放しで賞賛されるものでもないことは注意しないとです。だからこそ、デモを『育てる』社会にしたいですよね。

まだ絶望してはいけない。まだあと少し、もう少し。


追記

とある呟きを見て、同じように昔の自分を思い出しました。私は中学での授業がきっかけで知り、考える/思う機会となり、その感じたことを共有できる友人がいたから行動にまで繋がったのだと思います。私だって、昔はこう思っていなかったじゃない、と反省です……。そして思ったこと以下。

①私の知るきっかけが授業であったこともあり、一昨日は「授業でこれについて考えているのになぜその発言が出てくるの?」と思ってしまったことが、私の反省すべきことでした。私が高校の授業で、いつも皆の数回遅れで理解していたように、授業が必ずしも”その時””その人”に届くわけではない。自分の体験で物事を判断しすぎていました……。

②ここ数ヶ月の問いは、知ることと行動することの間にはどのような変化のきっかけがあるのか、でした(行動に移している団体とお話ししたことを受けて)。しかし一昨日の経験は、知ることと思う/感じることの間であったようにも思います。(周囲の影響はやはり大きそうだけれど)

③教育に対して無力(微力)さを感じたのは、ある類の考えや発言に関しては、その場での修正が効かず、後から行われる振り返りの対象にしかなれないことへの悲しみなのかも、と。例えばデモに対して肯定/否定的な発言であれ、周囲の人がその人の意見に対してその場で反論したりせず「(どちらの意見でも)現実を知れば変わるよ」と、変化の中にあるとすることで、他と等しい一意見として受け止めていないのではないかと。考えた後に、考える前を振り返って「昔の私って」となることは、学習という視点では自然であるようにも思うけれど、その過去の発言に対しては、自分自身だけではなく、周囲はどれくらい責任をもって受けとめるべきなのだろうかということです。子どもの意見表明権というけれど、結局周りの人が「未熟な意見」を「これから変われば(成長すれば)良いもの」として扱っている場面を見ると、それはどうなんだろうと思うのです。うーん……?

せっかく具体的な話をしていたにも関わらず、こうして話を逸らしてしまうのはわたしの悪癖です……。こんなことを考えている暇があったらもっと直接的に少しでも意味のあることをした方が良いのかも。
話を強制的に戻すと、今回の件で、私が今まで声を出せていたのは、周りにそれを肯定してくれる人がたくさんいたからだと痛感しています。一昨日から、大学で意見を言うことが怖くなったからです。けれでも言い換えれば、「動きたいけど動けない人」に、「いるよ」と知らせることができれば、私が彼らの”周り”になることができれば、一緒に歩いていけるのかもしれません。彼らからも一歩近づいてほしいし、私からも出会いにいきたい。自分の地元でそういうのは行われていない、という人も、起きている場の空気を知れたら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?